天下人、豊臣秀吉の性格を分析!!あなたも当てはまる?

 

生き方が反映される、その人となり。この記事では「豊臣秀吉の性格」を分析します!一代で天下人となった豊臣秀吉の性格。「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」と謳われる豊臣秀吉を追っていきましょう。

川柳にもある「ホトトギス」。鳴かせられる秀吉の性格とは

 

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ホトトギス―。戦乱の世において、鳴かないなら殺してしまう?腰を据えて鳴くまで待つ?「猿」の愛称でも知られている豊臣秀吉は、川柳で「鳴かせて見せよう」と表現される人物です。一百姓の出である彼が天下人となり、物事が思い通りに行かない時には、策を練って状況を打破するのですから、その性格に由来がありそうです。

 

人懐っこい人気者

お祭り男とでも言いましょうか。度胸を持ち合わせて人を楽ませることに長けているのですから、人気者と言うのもうなずけます。例えば、裕福ではない百姓出身の自らについて、誰でも判る嘘を絡めて陽気に語ったエピソードもありますよね(「自分の母親は貴族の出だ」「自分の名前は『日吉丸』と云ったんだ」等)。

 

チャンスをつかむ世渡り上手

尽くす故に活躍の場を得られる―。織田信長との主従関係が有名ですが、その前にも秀吉が名もない時期に仕えていた武将がいます。今川家の松下之綱(まつした・ゆきつな、かへい)です。武家奉公中にはその才能と献身的な奉公で之綱から可愛がられ出世をしていくものの、屋敷内で家臣の妬みを買い之綱の元を去る事になったのです。次いで織田信長に仕える秀吉。寒い冬に懐で温めた草履を信長に差し出したエピソードのように、その場その場で機転を利かせて君主に尽くす処世術・チャンスを活かす頭の使い方に長けていたのでしょう。

 

有名な草履のエピソード。一見無礼?でも・・・。

草履もちから立身出世をしていくにあたり、ただ目立つだけでは頂点には昇り詰められません。「人気者」「献身的な態度」をいかにして活かしていくか。上下関係の厳しい世において、主君の履物を下々の身分の者が、然も懐で温める行為はともすると無礼千万なこととされるかもしれません。しかし、自分がアピールすべき人物は誰か?その人物に対してどのように接すれば好印象を持ってもらえるか?を見定められる冷静な部分があるからこそ、嫌味なく信長に可愛がられるようになったとも言えるでしょう。

 

人間観察力のなせる技?

明智光秀によって天下統一の道を志半ばで閉ざされた主君・織田信長の仇を討とうと覚悟を決めた秀吉。明智光秀を討った後、自分が身を立てることから天下をとることに目標をシフトしていきます。本能寺の変が起きた時、秀吉は信長の命により毛利氏の拠点、中国地方で高松城の水攻めを行っていました。事を敵に悟られないよう味方と合議しながら和睦に導きます。そして、連携を密にしながら、周囲の布陣を鑑みつつの中国大返しを経て、山崎の戦いで光秀を討ち取るのです。戦国武将の仕事と言えば敵を倒す事ですよね。しかし秀吉は殊のほか人を殺すことを嫌っていたようで、戦いにおいても「水攻め」「兵糧攻め」を用いています。この方法であれば、直接斬りあうより自陣のダメージを少なく抑える事が出来ます。加えて敵が降伏すれば人を斬らずに済みますし、最終的に味方に転換させる事もできます(高松城の水攻め後、毛利氏も和睦を廃することなく秀吉に一目置く状況を続けていました)。自らが天下を取ることで戦乱の世を終わらせようとする、家族思いでもある秀吉の願いが浮かび上がってくるようです。

 

トップに立ってからも、行動力が抜群!

 

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天下統一を成し遂げた後の秀吉の政策として、次の事柄が有名です。百姓が農作業に専念できるよう、また一揆を起こさせないようにする「刀狩り」。これまでの検地の複雑さを改善した「太閤検地」。この2つは秀吉自身の百姓時代の経験が用いられた政策でしょう。そして、2度の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)です。国内の統一後に出兵した事で豊臣政権が衰退してしまった事は周知の事実ですが、行動的な部分が見て取れます。統一後の行動から彼の性格を追っていきましょう。

 

自己顕示欲を活かす

臨機応変な顕示で主君に気に入られる事に長け、上に立ってからは有能な人材を用いて自らの右腕とする。自分の価値を見出してくれる人物を見抜きチャンスを活かしてきた秀吉の事ですから、逆に部下に対する観察力にも優れているでしょう。

 

認められたい欲求も

後述する「女好き」にも通じますが、承認欲求が強い性格でしょう。百姓出身の秀吉が興味を示した女性から考えると、高貴な身分の女性への憧れとともに、尊敬する存在である織田信長と同じ血族になりたいという思いが強かったようです。幼少時から苦労を重ね、能力主義の信長の下で身を立ててきた秀吉ですから、やる気を引き出しモチベーションを高める上で、承認欲求は秀吉自身に対してのみならず家臣に対しても有効な手段になりえるでしょう。

 

女の人が大好き

また、豊臣秀吉と言えば語れるエピソードの一つに「女好き」が挙げられます。日本史史上稀な性欲の強さを持っていたと言われています。関係を持った女性は300人程とも。前項にも書きましたが、高貴な生まれの若い美女で、その中でも織田信長の血を引く家系の女性にこだわっていたそうです。秀吉の側室の中でも有名な「茶々(淀殿)」の父は浅井長政で母は織田信長の妹のお市ですね。

 

上に立つ者の優しさと冷酷さ

天下人となった豊臣秀吉。秀吉の得意技「人たらし」で味方を増やし、敵も味方に変え、戦乱の世を終わらせようとしてきました。しかし天下人となる前後あたりから、性格が悪いと評されてしまう事柄が出てきます。主君であった織田信長が亡くなった後、信長の一族に対して切腹や追放などの冷遇をしています。他でも冷酷非情な事を行う等、行動に正当性が無くなり、その判断能力に衰えが見られるのです。人を斬る事を嫌っていたのが、二度の朝鮮出兵。家族思いであったのが、甥に当たる秀次に切腹を命じ、家族の命も奪う。なぜこのような変貌が起きたのでしょう。原因として考えられるのは、「元々の残虐性を隠すために善人として振る舞ってきた」が一つ目。そして、「加齢や何かしらの病気によるもの」が二つ目として挙げられるのではないでしょうか(明智光秀を討ったのが秀吉45歳。朝鮮出兵時、秀吉55歳)。

 

戦国の世に、一代で天下人となった秀吉の多様な性格

 

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複雑且つ多様な面を持ち合わせる秀吉。天下を取ってから、「攻め」から「守り」に入ったと言えそうです。前述の織田一族への冷遇も、かつての主君、織田信長の一族となることを思い描いていたのが、今や信長の遺児が自分を脅かす存在となることに怯えたものによると考えられます。また、家臣が乗り気でない中で実行された朝鮮出兵は、豊臣の中で調整役である弟・秀長が亡くなった後に起きています。秀長を失ったことは秀吉にとって大きな苦しみとなったことでしょうし、冷静な判断力に欠き冷酷に豹変してしまう、自分の首を絞める一端になると考えられます。天下人になるまでと、その後の豊臣秀吉には大きな性格の違いが出てきました。冷酷さを何十年にも渡って周りに見せることがなかった秀吉。陽気で人懐っこい彼は、出世と天下取りの野望に向けて自分に行動にも策を練っていたと考えてみると、性格からもっと興味深いエピソードに出会えると思いませんか?

 

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