知る人ぞ知る天下人!豊臣秀吉が天下をとるまでを年表で見てみよう!

「人に歴史あり!」この記事では、天下人・豊臣秀吉の生涯を年表形式で記しています。いかにして天下をとったのか、様々なエピソードと共にご紹介します!

どうやって出世の道を歩んだのか?戦国アメリカンドリームの始まり!

豊公誕生之地碑/Wikipediaより引用

アメリカンドリーム・・・。いつの世も、誰しも掴んでみたい夢・野望があるのではないでしょうか!?皆さんが思い描く野望はどのようなものでしょう。ここでは武家社会・身分社会の中、一農民から一代で天下を築いた豊臣秀吉を重要なトピックから追っていこうと思います(西暦年の隣のカッコは秀吉の年齢です)。

誕生から武家奉公まで

1534

織田信長 尾張国那古屋城にて生まれる

 

1537年(0歳)

豊臣秀吉 尾張国(現:愛知県)にて生まれる

 

1542

徳川家康 駿河国岡崎城にて生まれる

<<戦国の三英傑がここに出揃う>>

 

1549年(15歳)

フランシスコ・ザビエルにより『キリスト教伝来』

 

1551年(17歳)

〔元服〕をむかえる

今川家家臣・松下之綱(まつした・ゆきつな)の元で武家奉公を始める

この頃、名前を『木下藤吉郎』と改める信長と秀吉の主従関係は誰もが知る有名なところですが、実は信長は秀吉にとって2人目の君主でした。秀吉が名もない時代に仕えていたのが、駿河国は今川家の武将・松下之綱(まつした・ゆきつな)です。武家奉公中の秀吉は、才能と献身的な奉公が功を奏して之綱から可愛がられ出世していきます。一方で流れ者の出も手伝って、同僚である周りの家臣からは疎まれる事となり、之綱の元を惜しまれながら去るに至ります。因みに、この松下之綱は江戸時代の剣豪・柳生十兵衛の祖父にあたる人物です。

 

信長の元で武勲を挙げる

1554年(17歳)

織田信長の元で武家奉公を始める

 

1560年(23歳)

『桶狭間の戦い』信長による今川義元征伐に参戦

 

愛する「ねね」との結婚と織田家司令官への道

 

1561年(24歳)

「ねね」と結婚

「ねね(北政所)」は織田信長の武将・浅野長勝の娘で、当時は珍しい恋愛結婚でした。正室です。

 

1562年(25歳)

〔足軽百人組〕のリーダーとなる

 

1563年(26歳)

〔普請奉行〕として『清須城』の修築を行う

 

1566年(29歳)

美濃攻めに参加

美濃攻めの際、かの有名な「墨俣城(すのまたじょう)」(通称【一夜城】)を築城し、出世の足掛かりを掴みます。

 

1569年(32歳)

〔京都奉行〕の任に就く

 

1570年(33歳)

『金ヶ崎の戦い』織田・徳川連合軍による越前攻めに参戦

浅井長政の裏切りに端を発する戦いで、史上有名な撤退戦の一つ。自軍の被害を最小限に留めることができたのは、秀吉の働きによるところが大きいとされています。

 

1571年(34歳)

信長による『延暦寺焼討』

 

1573年(36歳)

越前国(現・福井県)朝倉義景、及び近江国(現・滋賀県)浅井長政攻めに参戦

この頃、名前を『羽柴秀吉』と改める

この戦いでの功績が認められ、浅井氏の領地の一部と、自分の城として『小谷城』を信長から与えられます。改名にあたり、織田家の重要人物である、柴田勝家・丹羽長秀両名から文字をとって『羽柴秀吉』としています。城を与えられた事での重鎮への気遣いがあったのですね。

 

1574年(37歳)

『長浜城』を築城

<<城持ち大名へと出世を果たす!!>>

 

1575年(38歳)

『長篠の戦い』

 

1577年(40歳)

信長の命を受け、<中国地方総司令官>の職に就く

これから5年後、本能寺の変が起きた時には、中国地方の備中高松城の水攻めを行っています。

 

1580年(43歳)

本拠地を『姫路城』(現・兵庫県)へ移す

 

君主・織田信長の死去

秀吉が中国地方へ出征した後、京では同じ信長の家臣である明智光秀が謀反を起こします。『本能寺の変』です。

1582年(45歳)

『本能寺の変』織田信長、没

この時、秀吉は信長の命を受けて、毛利氏・中国征伐に就いていました。毛利氏配下の清水宗治が治める備中高松城の水攻めを行っていたのです。信長の死を敵に悟られないよう、味方と合議しながら毛利氏と和睦を図ります。後方を固めたうえで周囲の布陣を鑑みながら京に戻ります。俗に言う『中国大返し』ですね。そして『山崎の戦い』で主君の仇・明智光秀を討つのです。本能寺の変、明智光秀を討ってから、秀吉の野望は立身出世から天下統一へと変化していきます。

 

名将たちとの闘い

1583年(46歳)

『賤ケ岳の戦い』「七本槍」の活躍もあり、柴田勝家(信長に仕えていた武将)を破る

これにより、織田信長の継承者であることを世にしらしめる事に成功、秀吉の覇権が確立されました。『賤ケ岳の七本槍』とは、秀吉方で功名を挙げた7人の総称で、後年、秀吉政権下で力を強めていきます。

 

1583年(46歳)

『大阪城』の築城を始める

石山(大坂)本願寺の跡に築城を始めます。この本願寺は、延暦寺と併せて信長が抑えようとした寺院勢力の一つでした。

 

1584年(47歳)

『小牧・長久手の戦い』織田・徳川連合軍との戦いで敗北を期する

この時の敵将・徳川家康は「秀吉に最後に土を付けた男」と称されました。敗北したとはいえ、秀吉は天下取りの歩みを止めることは無かったのです。

 

天下統一 ~~攻めと守りの時代~~

 

豊臣秀吉『稲葉山の月』/Wikipediaより引用

弾みをつけて、天下統一へ進む秀吉。自らの地位を守りながら、各地方を平定していきます。短期間のうちに、平定した相手方を味方につけ、その後の戦いで駒として豊臣を勝利に導かせます。頭が回る切れ者の策士ですね。また、戦い以外でも、政権維持の為に策を弄しています。

大阪城築城と、最高位・関白

1585年(48歳)

大阪城の完成。〔関白〕の位に就く

伏見城、聚楽第と共に豊臣氏のシンボルである大阪城が完成します。また、この時点で武家のリーダーを飛び越えて、貴族の頂点〔関白〕に立ってしまうのです。

敵将の服従と臣下の増加

1585年(48歳)

長宗我部元親を破る【【四国地方を平定】】

かつて信長により準備がされていた四国征伐ですが、本能寺の変・信長の死によって立ち消えになっていました。ここに四国平定を達成します。

「豊臣秀吉」の誕生と行った政策

1585年(48歳)

『藤原』姓に改める

自分の身分の低さにコンプレックスを持っていた秀吉。陽気なホラ吹きでもあった秀吉は、かつて「自分の母は貴族の出だ」「自分の名前は『日吉丸』と言ったんだ」等、裕福ではない出自を語っていたというエピソードもありますね。公家の最高位である〔関白〕になるために、「藤原」という由緒正しい姓を利用する方法をとったのではないか、と言われています。

 

1586年(49歳)

〔太政大臣〕の位に就く。名前を『豊臣秀吉』と改める

太政大臣となり、時の天皇・後陽成天皇から『豊臣』姓を賜ります。併せて、『五七桐(ごしちのきり)』という、天皇家と関わりのある桐紋の中でも最高クラスの家紋を与えられたのです。

この年、2年前に敗れた『小牧・長久手の戦い』の敵将・徳川家康との和睦の結果、家康をを家臣とすることに成功します。残る大きな敵は、薩摩を拠点とする九州地方の島津義久、小田原を拠点とする関東地方の北条氏政・氏直親子となりました。

 

1587年(50歳)

『九州の役』島津義久を破る【【九州地方を平定】】

『キリスト教禁止令』の発布

1549年、秀吉15歳の時に伝来したキリスト教。九州平定の際に秀吉は『キリスト教禁止令』を発布しました。当初は信長同様にキリスト教を容認する立場にいました。発布に至るには、国家の統制を図るために外交権や貿易権を自分に集中させようとする狙いや、キリスト教徒による寺社仏閣迫害への対策、また、九州で行われている日本人の奴隷売買を阻止するため、等が理由として伝えられています。キリスト教の弾圧という性格は見られない禁止令と考えられます。

 

1588年(51歳)

『刀狩令』の発布

「茶々」を側室に迎える

残る武将は関東の北条氏となりました。しかし、秀吉は敵武将の力のみを恐れていたわけではありません。農民による一揆を恐れていました。これまで、有事の時には農民も刀を手に戦いに駆り出されていましたし、農民の中でも富める者の中には商売を行い金銭を手に入れ土地を広げたり、用心棒を雇い武装している者もいました。秀吉は自らを守り反乱を起こさせないようにと、農民のみならず寺院や町民などからも刀狩を行うことにしたのです。『刀狩令』では、農民は武器を持たずに農業に従事する事、大仏鋳造に必要な鉄とするために武器を差し出すように、の旨が発布されました。この結果、武士以外は武器を持つことができない・農民は農業に従事する等、兵農分離が進み、士農工商という身分制度が生み出されていきます。尚且つ、この制度により身分も固定され世襲する流れとなりました。

 

天下統一

1590年(53歳)

『小田原の役』北条氏政・北条氏直親子を破る【【関東地方を平定】】

東北地方の大名を家臣とすることに成功【【東北地方を手中に】】

秀吉の小田原城攻めです。北条を破り、これにて天下統一を達成させます。5年前に平定させたかつての敵・長宗我部元親はこの時、水軍を率いて秀吉軍に従軍しています。この水軍、長宗我部元親が四国統一の時には補給部隊として活躍していたものです。秀吉の2度の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍しています。

<<ここに、豊臣秀吉の天下統一を達成!!>>

 

1591年(54歳)

関白の位を秀次に譲る。自らを『太閤』と名乗る

 

1593年(56歳)

茶々(淀殿)、第2子「秀頼」を出産

 

豊臣を後継者に託して ~~傾く栄光と守りの時代~~

 

豊臣秀長/Wikipediaより引用

天下統一の野望を達成した秀吉。対外政策にも力を入れますが、大事な家族を失う辺りから、徐々にその栄光に蔭りを見せ始めます。もともと人を斬る事を嫌っていた秀吉は、戦いでも水攻めや兵糧攻めを用いてきました。しかしながら、ここにきて、身内や関わるものをを切腹せしめたり朝鮮出兵を行うなどの冷酷な行動が出てきます。彼の晩年を豊臣家存続への思いと絡めながら見ていきましょう。

愛すべき家族の死

1591年(56歳)

茶々との第1子「鶴松」と異父弟「豊臣秀長」の死

この年に、秀吉にとって大事な家族が相次いで死去しています。秀吉と秀長兄弟は、秀吉が10代のころに家を出てから15年程経った後に再会、その後秀吉の陰で兄を支えています。兄が出世の道を進み、城を持つようになってからは城の留守を預かったり、北陸地方を注視していた秀吉の代わりに、信長の元で『長島一向一揆』にも参加したりして勤めを果たしてもいます。転換期の中国攻め、秀吉が関白となった後の四国・長宗我部元親征伐にも参戦しており、殊、四国征伐では病気の秀吉に代わり総大将を務め勝利を収めたのです。大納言の位を与えられた後、体調を崩したものの九州の役には参戦したそうです。そして、51歳で秀長は死去。陰になり日向になり兄を支えてきた秀長亡き後の秀吉の行動は、豊臣家を疲弊させることになっていくのです。

豊臣を疲弊させた朝鮮出兵

1592年(55歳)

朝鮮出兵(1回目)『文禄の役』

秀吉が朝鮮出兵の道を進んだのには、領地を広げ部下に与えることで謀反を起こされることを抑える目的がありました。謀反が無ければ、豊臣家が永続的に安泰であると考えていたのでしょう。武力や政治力よりも策を弄することで成立した豊臣秀吉の政権。部下に振る舞う土地を得るために、明(中国)の征服の足掛かりとして「朝鮮出兵(唐入り」)を行うのです。因みに茶人として有名な「千利休」はこの計画に気付き、結果切腹に追い込まれています。

 

1593年(56歳)

小西行長による明との交渉で、文禄の役を講和に導く

 

秀頼と秀次

1595年(58歳)

『秀次事件』関白を与えた秀次を高野山へ追放のうえ、自殺を命ずる

秀吉の血縁者の中で、唯一の成人男性。関白も譲り受けていた後継者候補だった秀次が何故切腹に追い込まれたのでしょう。秀次は秀吉の甥(秀吉の姉の息子)で、当時息子のいなかった秀吉に実子の代わりとして利用されてきました。18歳の時に『豊臣』姓を与えられ、後に関白の位も譲り受けています。秀吉の第1子鶴松が無くなり、秀吉の後継ぎとなるのが色濃くなってきたところで、淀殿が第2子となる秀頼を出産するのです。当初は秀頼と秀次の娘を結婚させたうえで、豊臣家を「秀次→秀頼」と継承させる案もあったようですが。そして、秀次は突然『秀次謀反』を言い立てられます。秀吉に対して申し開きもできないまま、高野山追放の命が下り、追放の半月後には福島正則を経由して自害を命じられたのです。追って、秀次の妻子も処刑され住居も破壊されつくしています。一方、実子・秀頼への処遇は手厚いもので、秀吉は「秀頼へ従う」よう諸大名に誓紙を書かせています。秀次を後継者とする思いは消え去ってしまったのですね。

 

1596年(59歳)

明国の使いと接見。使いの無礼な態度に怒り追い返し、翌年2度目の朝鮮出兵を決める

 

1597年(60歳)

朝鮮出兵(2回目)『慶長の役』

前年の接見に端を発した2度目の出兵でした。この慶長の役にはエピソードが一つありまして、前述した秀次に関連するものです。謀反の云いがかりの理由を千利休同様、朝鮮出兵に反対の意思を示していたということで、切腹に追い込んだというものです。文禄・慶長の役の陰には、秀吉自身に関わりの深い重要人物の死が関わっていたのです。また、翌1598年、秀吉の死によって日本軍は撤退するものの、対外政策としては明と朝鮮の反日感情を募らせる結果となりました。

「五大老」「五奉行」

『五大老・五奉行』制度は、死を予感した秀吉により豊臣家の維持のために作られた制度です。後継ぎの秀頼が成人するまで、有力な大名と信頼に足る家臣の部下により政務を執り行う必要な組織でした。〔五大老〕は、秀吉の旗の下についた大大名で構成されています。政治をつかさどることで豊臣家から目をそらさせ有力大名同士で牽制しあう目的もありました。徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元が就いています。当初、大老に名を連ねる予定であった小早川隆景は大老にカウントされる前に死去したため、一般的には〔五大老〕と称されることになりました。一方の〔五奉行〕は、実務を執り行う集団です。召し抱えられた秀吉直属の家臣がその任にあたっています。石田光成・増田長盛・長束正家・浅野長政・前田玄以で構成されていました。

 

1598

慶長の役のさなか、息子・秀頼を〔五大老〕の徳川家康に託す

 

1598年(61歳)

伏見城にて死去。61歳の生涯を閉じる

朝鮮出兵中の日本軍は報を受け撤退する

 

豊臣秀吉のつかんだもの、彼が歴史に残したもの

秀吉が敗北を期した『小牧・長久手の戦い』で、秀吉に最後に土をつけた男・徳川家康。秀吉が豊臣存続を願い、死の寸前に作った五大老五奉行の構成員の中から、大名の力関係を混沌に落とし込み、ひいては豊臣家を滅ぼし新しい世を作っていく人間が出てくるのですね。

農民から一代で天下統一を果たした、豊臣秀吉の一生をご紹介して参りました。夢をつかみ取った彼の辞世の句を読んだ時、皆さんは心に何を思い描きますか?

 「露と落ち  露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

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