波乱万丈!西郷隆盛の5人の子供はどんな人生を送ったのか!

西郷ドンでおなじみの西郷隆盛ですが、一人目は須賀、二人目は愛加那、三人目人目は糸(糸子)という三人の女性と結婚し、二人目の愛加那と三人目の糸の間に五人の子供がいます。西郷隆盛自身ではなく、その五人の子供たちも父である西郷隆盛に負けないくらい波乱万丈の人生を送りました。今回は西郷隆盛の五人の子供たちがどんな人生を送ったのかを見ていきたいと思います。

 

西郷隆盛と3人の妻たち

西郷隆盛

明治維新の立役者の一人、西郷隆盛。彼は生涯で3回結婚をしたことはご存知でしょうか?

最初の妻である須賀、二人目の妻愛加那、三人目の妻糸。どうして西郷隆盛の結婚生活は長く続かなかったのでしょうか?

 

最初の妻「須賀」との間には子供はいなかった

西郷隆盛の最初の妻は西郷隆盛の家よりも格上の伊集院須賀という女性で、西郷隆盛が一目惚れで結婚したと言われています。結婚してすぐに隆盛の祖父、父親、母親が亡くなり、西郷隆盛自身も薩摩藩主の島津斉彬に抜擢され江戸での勤務を命じられた為、須賀は薩摩に一人で残り、西郷家の5人の姉弟たちの面倒を見なければならなくなリました。須賀にとって結婚生活はあまり良いものではなく、体調不良で実家に戻り離婚をしたという説があります。結局西郷隆盛と須賀の結婚は2年ほどで終わりを迎えます。

 

2人目の妻「愛加那」との間には2人の子供がいた

安政の大獄で幕府から追われる身になった西郷隆盛は、薩摩藩から命じられ奄美大島で暮らすことになります。そこで出会ったのが2人目の妻である愛加那です。薩摩藩では領内の島に滞在する場合、正妻の他に島妻(あんご)と呼ばれる妻を娶ってもいいという藩法がありました。島妻である愛加那と西郷隆盛の間には2人の子供が生まれますが、薩摩藩の島妻制度により愛加那を奄美大島から連れ帰る事が出来なかった為、2度めの結婚も長くは続きませんでした。

 

3人目の妻、「糸」の間には3人の子供がいた

西郷隆盛の3人目の妻であり、最後の妻となったのは岩山糸(糸子)という女性でした。西郷隆盛が2回の離婚歴があるのに対し、糸も1回離婚をした事がありました。結婚後も西郷隆盛は殆ど鹿児島に居なかった為、大家族である西郷家を支えていたのは糸でした。西郷隆盛と糸の間には3人の子供が生まれ、その後奄美大島の愛加那の子供、、菊次郎も引き取り、糸は4人をは別け隔てなく育てたと言われています。

 

愛加那との子供、菊次郎と菊草はどんな人生だったのか

西郷隆盛

西郷隆盛は奄美大島に身を隠していた間に奄美大島の名家の娘であった愛加那と結婚し、2人の子供を授かっています。島妻の制度のため、愛加那を連れて連れて行く事は出来ませんでしたが、二人の子供は薩摩で教育を受けることが許されため、1869年に菊次郎と菊草は鹿児島へ引き取られました。次は西郷隆盛と愛加那の子供がどんな人生を歩んだのかを見ていきましょう。

 

西郷隆盛の息子、菊次郎の人生とは

西郷隆盛の息子である西郷菊次郎は、西郷隆盛が奄美大島で生活していた時に愛加那との間に生まれました。本来は長男になりますが、愛加那が島妻だった為、戸籍上の長男は糸との間に生まれた寅太郎になります。奄美大島で西郷隆盛と暮らしたのは2年ほどでしたが、後に鹿児島の西郷家に引き取られ、糸に育てられます。

 

12歳のときに2年6ヶ月の間アメリカに留学した菊次郎ですが、帰国後に参戦した西南戦争の際に右足に銃弾を受け、膝から下を切断することになります。

 

西南戦争で西郷隆盛が亡くなったあと、西郷菊次郎は奄美大島に戻って数年間実母の愛加那と暮らした後、外務省に入省するために東京へ向かいます。留学経験のあった西郷菊次郎は入省後、米国公使館などで働きました。日清戦争後には日本の領土になった台湾に4年半赴任し、宣蘭支庁長として宣蘭市の繁栄のために尽力しました。中でも大工事の末に完成した堤防は100年を過ぎた今でも残っていて、西郷菊次郎へ尊敬を表す石碑が堤防に建てられています。

 

その後日本に帰国した西郷菊次郎は約6年間京都市長を務め、1928年に亡くなりました。

 

長女、菊草の人生とは

西郷隆盛の長女である菊草は、西郷隆盛が奄美大島から鹿児島に戻るときはまだ愛加那のお腹の中でした。

12歳で鹿児島の西郷家に引き取られ、14歳のときに大山誠之助と婚約をした菊草ですが、西南戦争で兄の菊次郎とともに参戦した大山誠之助は宮崎県監獄署に収監されてしまいます。

大山誠之助が釈放されたのは1879年で、翌年の2月に17歳の菊草と30歳の大山誠之助は結婚をします。

菊草と大山誠之助の間には4人の子供がいましたが、大山誠之助の借金や家庭内暴力でかなり苦労したそうです。

1907年頃、やっと誠之助と別居することができた菊草は、京都市長をしていた兄の菊次郎に身を寄せ、その2年後に京都で亡くなりました。

 

糸との子供「寅太郎」「午次郎」「酉三」はどんな人生だったのか

西郷隆盛

西郷隆盛が糸と結婚したのは隆盛が37歳、糸が21歳のときでした。二人の間には寅太郎、午次郎、酉三という三人の息子が生まれました。

次は糸との子供である寅太郎、午次郎、酉三の人生を見ていきましょう。

 

戸籍上は長男「寅太郎」の人生とは

西郷隆盛と愛加那は正式に結婚をしていなかった為、本来は長男であるはずの菊次郎は庶子として扱われました。そのため戸籍上の長男は寅太郎になります。西郷寅太郎は1866年に西郷隆盛と糸との間に生まれました。18歳のときに明治政府の重鎮だった勝海舟らの働きかけで、明治天皇からポツダム陸軍士官学校への留学を命じられます。寅太郎はその後13年間ドイツで生活します。帰国後、寅太郎は陸軍少佐になり、父、西郷隆盛の功績によって侯爵を授かり、貴族院議員になりました。

第一次世界大戦の際は東京俘虜収容所の所長を務めましたが、当時流行していたスペイン風邪による肺炎で在職中のまま53歳で亡くなりました。

 

次男「午次郎」の人生とは

西郷隆盛の次男、午次郎は軍人となった長男寅太郎とは違い、日本郵船の社長秘書になりました。午次郎が37歳のときに16歳下のヒデと結婚し、4人の子供を授かりました。兄である寅太郎が亡くなった後、75歳になった母の糸と寅太郎の遺児を引き取りましたが、男8人、女4人という大所帯の上、寅太郎の妻が浪費癖があった為、あまり裕福では無かったようです。母の糸が78歳でなくなるまでの間、糸と共に過ごした午次郎は、糸の最後を看取りました。日本郵船退職後は西郷隆盛の弟が所有していた現在の西郷山公園の土地を譲り受け、平穏な人生を送りました。

 

三男「酉三」の人生とは

西郷隆盛の三男である酉三は1873年に生まれました。酉三が4歳のとき父である隆盛は亡くなりますが、その2年前の1875年の10月に西郷隆盛は日当山温泉にて3週間の間家族や親類と過ごしています。当時酉三は2歳でしたが、父である西郷隆盛とわらじ作りをしたりして楽しんだようです。普段は子供たちと一緒にいられない西郷隆盛でしたが、このときばかりは穏やかで貴重な時間だったと思われます。1903年10月に酉三は30歳で亡くなります。死因は結核でした。

 

西郷隆盛の血を引く子孫は今

西郷隆盛

西郷隆盛の血は現代でも受け継がれています。有名人も多く、この人が? と驚かれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

・大河ドラマ西郷どんにも出演中! 女優「西郷真悠子」さん

西郷どんのドラマの中で西郷隆盛の弟である西郷従道の娘の桜子を演じている西郷真悠子さんは、西郷従道の孫の孫に当たります。

・タレントの友利新さんの旦那さんも血を引いている

タレントの友利新さんの旦那さんは西郷隆盛の弟の子孫に当たるそうです。

・陶芸家の西郷隆文さん

2011年に現代の名工にも選ばれた陶芸家の西郷隆文さんは、西郷隆盛と愛加那の間に生まれた菊次郎の孫に当たります。

・元法務大臣 西郷吉之助

第二次佐藤内閣で法務大臣を歴任した西郷吉之助さんは、西郷隆盛と糸との間に生まれた寅太郎の三男で、西郷隆盛の孫に当たります。

・天才ジョッキー武豊さんと弟の武幸四郎さんは西郷隆盛の遠縁に当たります。

・カフェを運営している経営者 西郷隆夫さん

西郷隆夫さんは西郷隆盛と糸の間に生まれた西郷寅太郎の孫です。

・チェリストとして活躍している大藤圭子さん

大藤圭子さんは西郷隆盛の弟である西郷従道の子孫に当たります。

・西郷吉太郎さん

西郷隆盛のひ孫にあたります。

 

違う目線で西郷隆盛を見てみる

西郷隆盛

大河ドラマで注目されている西郷どんこと西郷隆盛ですが、その子供たちがどんな人生を送ったのかを詳しく知る機会は少ないのではないでしょうか。西郷隆盛を支えていた妻たちや5人の子供のことを知ることで、今までとは違う目線で西郷隆盛を知ることが出来るのではないでしょうか。

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