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歴史

ダグラス・マッカーサー元帥の素顔を追う ~アメリカ陸軍の英雄~

戦後まもない日本。厚木の海軍飛行場に、サングラスをかけ、コーンパイプを咥えた出で立ちで現れ、GHQを率いて日本を占領し、日本をつくり変えた男、ダグラス・マッカーサー。この記事では、マッカーサーの生涯、昭和天皇や吉田茂との関係、その他のエピソードを紹介します。

ダグラス・マッカーサーの生涯

マッカーサー
マッカーサー/Wikipediaより引用

アメリカ陸軍大将として太平洋戦争において日本と戦い、戦後は連合国軍最高司令官として日本の民主化を推し進めたダグラス・マッカーサー。彼の素顔を追う前に、ここでマッカーサーの生涯についておさらいしておきましょう。

 

幼年時代~第一次世界大戦

1880年1月26日、ダグラス・マッカーサーは軍人の父アーサーと、綿花業者の娘であった母メアリーの三男として、アーカンソー州リトルロックで生まれました。

1899年にウェストサイド高等学校に750万点中700点という好成績で入学しました。4年の在学期間のうち3年はトップの成績で、非常に野球が得意な学生であったようです。

1903年に高校を卒業後に陸軍に入隊(陸軍少尉で任官)します。1906年に当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトの要請により、大統領軍事顧問の補佐官に任命され、1911年に大尉に昇進するなど、着実に出世の道を歩んでいきました。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、陸軍長官副官及び広報班長に就きました。アメリカが第一次世界大戦に参戦するのは1917年のことです。第42師団(レインボー師団とよばれた)が結成された際にマッカーサーは大佐となり、同師団の参謀長に任命され、西部戦線に参戦。危険な前線への視察をしばしば自ら行いました。

 

第一次世界大戦後~太平洋戦争

第一次世界大戦が終結した後、母校である陸軍士官学校の校長に就任しました。39歳の若さでのことでした。マッカーサーは、士官学校の古い体質の改善に努め、現代的な軍人を育成する場に改めました。

1922年にフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され、着任します。同年に結婚した妻ルイーズを伴って、マッカーサーはフィリピンに出発しました。1923年に関東大震災が日本を襲った際、フィリピンから日本への救援物資の輸送指揮を執りました。1925年にこれらの功績から、史上最年少で少将に任命されました(44歳)。

1930年にハーバート・フーヴァー大統領により、アメリカ陸軍参謀総長に任命されました(1933年にマッカーサーの副官についた人物が、のちのアメリカ大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーです)。1935年にフィリピンに戻ったマッカーサーは、フィリピン軍の軍事顧問に就任しました(1946年にアメリカから独立することが決定していたフィリピンには、自国民による軍隊が必要でした。)

1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカ本国に異動を申し立て、連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)の最高司令官になりました。

 

太平洋戦争期

1941年12月8日の、日本軍による真珠湾攻撃がきっかけとなり、太平洋戦争が勃発しました。

日本軍の猛攻に遭い、フィリピンのマニラが陥落(1942年1月)すると、マッカーサーはフィリピンを離れ、オーストラリアに身を置きます。この時アデレード空港で残した言葉こそ、「必ずや私は戻るだろう(I shall return)」でした。

マッカーサーは1942年4月18日に、南西大西洋方面最高司令官となり、1943年3月にビスマルク海海戦で勝利し、反攻に転じ始めます。フォレイジャー作戦をニミッツ提督に許可したことにより、フィリピンにおける長く激しい戦いが始まります。戦いは1945年8月の日本のポツダム宣言受諾まで続きました。

 

終戦後、マッカーサーの連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)時代

1945年8月15日に、日本はポツダム宣言を受諾して、終戦を迎えました。

1945年8月30日、専用機「バターン号」に乗って、マッカーサーは厚木海軍飛行場に降り立ちました。連合国軍最高司令官として日本を占領する形で様々な民主化に取り組みました。

まずマッカーサーは日本軍の武装解除に取り組み、2か月で、257万名の武装解除と復員を成功させました。1945年9月11日には第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切りました。

1945年10月11日に、日本の幣原喜重郎総理大臣に、「五大改革」指令を命じました。五大改革とは、

1.秘密警察の廃止

2.労働組合の結成奨励

3.婦人解放

4.学校教育の自由化

5.経済の民主化

というものでした。

1946年1月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本国憲法が成立(翌年施行)され、日本の民主化が急速に進められることとなりました。

 

朝鮮戦争期、退役

1950年に朝鮮戦争が勃発すると、同年の7月18日に国連軍総司令官に任命されます。しかし、当時のアメリカ大統領であるハリー・S・トルーマンと対立し、1951年4月11日に解任されます。1951年4月19日の退任演説の際に残した言葉こそ、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という一節です。これは、かつてのアメリカ兵たちに歌われていた風刺歌のフレーズを引用したものでした。

議場を出てワシントン市内をパレードした際には50万人の市民が集まり、盛大な歓声と拍手でマッカーサーを見送りました。翌日にはマンハッタンをパレードしましたが、その時には700万人の人々が詰めかけました。マッカーサーがいかに当時のアメリカ国民に人気があり、支持されていたかが分かるエピソードです。

 

退役以後

退役後は大統領選挙を見据えてアメリカ全土を遊説して回りました。行く先々で熱烈な歓迎を受けていましたが、徐々に人気は薄れ、聴衆は減ってゆきました。

マッカーサーは1962年に人生最後の閲兵と演説を、かつて自分が校長を勤めたウェストポイント陸軍士官学校にて行いました。

東京オリンピックの開催が1964年に決まると、戦後に内閣総理大臣を務めた吉田茂元総理は日本にマッカーサーを招くことなどを計画していたそうですが、それが叶うことはありませんでした。1964年4月5日に、マッカーサーは老衰による多臓器不全によって亡くなりました。84歳でした。

 

GHQのマッカーサーと日本

マッカーサーと昭和天皇
マッカーサーと昭和天皇/Wikipediaより引用

 

マッカーサーの生涯を振り返ったところで、マッカーサーと昭和天皇との関わりや、内閣総理大臣としてマッカーサーと何度も会談を行った吉田茂との関わり、そして、少し衝撃的なマッカーサーによる日本観をご紹介いたします。

 

マッカーサーと昭和天皇の関係

歴史の教科書で見たことはないでしょうか。マッカーサーと昭和天皇が一緒に写った写真です。

腰に手を当てて、リラックスした印象で写っているマッカーサーに対し、昭和天皇は直立不動の姿勢で写っていたことに、当時の日本国民は激しい衝撃を受けたと言われています。

マッカーサーと昭和天皇が初めて会談したのは、1945年の9月27日のことでした。自分自身が負うべきではない戦争責任についても引き受けようという昭和天皇の勇気と誠実さに感動したマッカーサーは、玄関から出ないつもりであったのに、会談が終わった後昭和天皇を車まで見送ったといわれています。

 

マッカーサーと内閣総理大臣・吉田茂との関係

戦後、GHQが日本を支配していた頃に内閣総理大臣を務めた吉田茂とも、興味ぶかいエピソードがあります。

吉田が葉巻をたしなむことを知ったマッカーサーは、フィリピンのマニラにタバコ畑を所有していたマッカーサーが葉巻を送りたい旨を述べたところ、「私はハバナ産しか吸いませんので…」と断ったというものです。

ユーモアのセンスがあり、イギリス流のジョークが得意だった吉田茂は、それによってマッカーサーの心をつかむことができたのです。

1964年に東京オリンピックの開催が決まった際、吉田はマッカーサーを日本に招待することを計画しました。戦争から復興した日本の姿を、マッカーサーに見せたいと思っていたからです。しかし、マッカーサーは老衰によって体が弱っており、程なくして亡くなったためこの計画は実現することはありませんでした。

 

日本人は12歳 ~マッカーサーによる日本観~

マッカーサーは、総司令官職を解任された後の1951年5月3日から、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催されましたが、この時に日本に対しての質疑も行われました。

その公聴会3日目(5月5日)に、日本人にとって衝撃的な発言が、マッカーサーの口からなされました。

「(前略)現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのに比較して、日本は12歳の少年のようなものである」という発言です。この発言は日本の新聞にも取り上げられ、当時の日本人は、「私たちは軽蔑されていただけに過ぎなかったのだ」と感じ取り、落胆し、このことが日本におけるマッカーサーの人気を大きく下げてしまう出来事になってしまいました。

しかし、マッカーサーの伝えたかったことが正確な形で日本人に伝わらなかったのだという説もあります。

 

マッカーサーの人物像

マッカーサー(レインボー師団司令部で)
マッカーサー(レインボー師団司令部で)/Wikipediaより引用

最後に、軍人という厳格な姿ではなく、「ひとりの人間としての」ダグラス・マッカーサーがいったいどのような人であったのかについて、ご紹介したいと思います。

 

マッカーサーの人柄・性格

マッカーサーは、上司にあたる人物からはあまり高く評価されてはいませんでしたが、部下からは絶大な信頼を集めていました。GHQでマッカーサーの下で働いたストラトメイヤー中将は、「アメリカ史におけるもっとも偉大な指導者であり、最も偉大な指揮官であり、もっとも偉大な英雄である」と称えているほどです。

しかし、どんなに盲目的に従ってくれる部下であっても、マッカーサーは手柄を分かち合おうとはしなかったといわれています。

 

マッカーサーの趣味嗜好

ご存知の方も多いと思いますが、厚木の海軍飛行場にマッカーサーが降り立った際、マッカーサーは大きなコーンパイプをくわえながらタラップを降りました。

マッカーサーはパイプたばこを吸うことが好きで、室内では高級素材のパイプをくゆらし、コーンパイプは使わなかったそうです。しかし室外では、わざと粗野に映るコーンパイプを用いることで、軍人らしい荒々しさを演出していた、といわれています。当時マッカーサーが使用していた17本のパイプの中で、コーンパイプは5本だけであったとも伝えられています。

 

まとめ

退任演説を行うマッカーサー
退任演説を行うマッカーサー/Wikipediaより引用

いかがでしたか? 今の時代となっては、マッカーサーについてあまりよく知らないという人も多いのではないでしょうか。しかし、マッカーサー率いるGHQの占領下にあった経験のある日本人だからこそ、マッカーサーについて知るべきであるのではないでしょうか。マッカーサーについて、少しでも興味を持っていただけたのなら幸いです。

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