ペリーの黒船来航とは?~鎖国と江戸幕府の終焉のきっかけ!?~

歴史の授業で必ず学習し、テストにも出たであろう、”ペリーの黒船来航”!日本を開国し、265年に渡り続いた江戸幕府の倒幕と明治維新のきっかけとなった日本史における大事件です。この記事では、黒船の名前の由来から、その影響までを詳しく解説していきます。

そもそも黒船って何のこと?

サスケハナ号
サスケハナ号/wikipediaより引用

黒船と言われて思い浮かぶのは当然のように、江戸時代末期に今の横須賀に来航したペリーの黒船を思い浮かべる方がほとんどでしょう。しかし、実は江戸時代以前から”黒船”という言葉は使われていたようです。

 

はじめまして黒船

そもそも黒船とは大型の西洋式航洋船の事を指して使われました。なぜ「くろ」船かというと、木製の船体に防水の目的で石油由来の黒いピッチやタールが塗られていた為”黒船”と呼ばれるようになりました。

はじめて”黒船”と呼ばれる外国船が来航したとされるのが1543年、室町時代のポルトガルの船とされています。この時の船は遠洋航海を目的とした帆船でした。文献上では1587年豊臣秀吉が発布したバテレン追放令(キリスト教と南蛮貿易を禁止した文章) の中で黒船の来航を認めています。

鎖国中の長崎の出島に来航にした東インド会社の船隻も全て黒船と呼ばれました。また、江戸初期にはウィリアム・アダムスという徳川家に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・貿易家や慶長遣欧使節団によって日本でも大型の西洋式航洋船、黒船に相当する船が建造されました。

 

超巨大!ペリーの黒船!

では幕末に浦賀に来航したペリーの艦隊は場合には”ペリーの”と枕詞がつくほど有名なのでしょうか?それは後述する政治的な側面が大きいのですが、それまでの黒船と大きな違いがペリーの黒船にはありました。

まず、江戸の人々がペリーの黒船に驚いたのはその大きさです。船の大きさは排水量という言葉を用いて語られます。前述した慶長遣欧使節団がスペイン人の協力の下建造したサン・フアン・バウティスタ号という船の排水量は約500トン。対してペリー艦隊四隻のひとつミシシッピ号の排水量は3233トン!とおよそ6倍もの排水量の軍艦でした。江戸の人々はその巨大な船体に大変驚きました。

また、ミシシッピは蒸気外輪式の日本に初めて寄港した蒸気船です。それまでの船にはなかった煙突からもうもうと吐き出される黒い煙と、両舷に水車のような外輪を備えた船に当時の人は大変驚きました。

 

当時のアメリカのねらい

ロバート・フルトンの開発した外輪蒸気船クラーモント号
ロバート・フルトンの開発した外輪蒸気船クラーモント号/wikipediaより引用

そんな巨大な軍艦を四隻も引き連れて鎖国体制の日本に向かうペリーのねらいとは一体何だったのでしょうか?これにはイギリスから始まった18世紀半ばから19世紀にかけて起こった”産業革命”とそれに伴う社会の変革が影響しています。

 

欧米での産業革命

西ヨーロッパ諸国は機械化で安価に大量生産された工業製品をインドや東南アジア、中国大陸の清へ輸出し市場を拡大していました。市場拡大競争でアメリカはヨーロッパ諸国と違いアジアに拠点を持っていないので遅れをとっていました。アメリカは大量生産できるようになった製品の市場とそれらの原料の調達のためアジア、日本を目指していました。

 

アジア市場の獲得

アメリカは1833年にシャム(現在のタイ)、オマーンのマスカットとの条約を締結しアジア市場の足がかりとします。1842年には清との間にも条約を結び、中国市場へと進出します。実はこの少し後、1846年に日本に東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがペリーよりも先に日本と条約を結ぶために浦賀に来航していましたが、条約を結ぶことはできませんでした。日本側の武士と小競り合いが起きてしまいまい、「米国への不信感を煽らぬよう、辛抱強く交渉に当たること」と命を受けていたビドルは交渉を中断します。ペリーはこのビドルの失敗から日本人への交渉方法を綿密に計画し、日本を開国させる事になります。

 

捕鯨船の補給目的

この当時のランプや工場で使われる機械の潤滑油にはマッコウクジラの鯨油が使われていました。産業革命後、欧米では夜遅くまで機械を動かすため鯨油の需要が増すばかりです。日本近海はマッコウクジラの良い漁場として知られていたため、欧米の国々の捕鯨船の補給拠点を求めていました。

捕鯨船は1年以上航海を行うため大量の燃料や水、食料が必要でアメリカも日本近海での補給基地の獲得は急務でした。

このような時代背景から米大統領フィルモアは日本を開国させ通商条約を締結する計画を立てます。1852年11月13日、訓令を受けたペリーは、24日に蒸気フリゲート艦ミシシッピ号に乗り、単艦でノーフォーク港を出港、日本へと向かいます。

 

ペリーの黒船来航!

1855-56年頃のダゲレオタイプの写真

1855-56年頃のダゲレオタイプの写真/wikipediaより引用

ついに日本へと向けて出航したペリー。近代的な軍艦の圧力でもって江戸幕府に開国を迫る作戦です。結果的に江戸幕府は開国するのですが、それまでに両者の間ではどんな駆け引きがあったのでしょう?

 

オランダから知らされるペリーの来航予告

ペリー来航の前年、1972年7月21日(嘉永5年)、オランダから江戸幕府にペリーが通商条約締結を目的に陸戦用の兵器を積んだ軍艦で就航するという情報が伝えられます。これを聞いた老中阿部正弘や譜代大名らは通商条約を結ぶべきではないとします。また、オランダの情報に信憑性が無いとしたため、幕府がとった対応は三浦半島の防備の兵をわずかに増やしただけでした。

ペリーは1853年5月4日、上海で補給を行い、予定していた3隻の艦船と合流します。合流したサスケハナ号に旗艦を移したペリーは薩摩藩の影響下にあった琉球王国、小笠原諸島を経由し日本へと出航しました。

 

ペリーの圧力!

1853年7月8日(嘉永6年3月)午後5時ごろ、浦賀沖に停泊します。4隻の艦艇は日本側の急襲に備え臨戦態勢を取りつつ、上陸する場合を想定し江戸湾の測量をはじめました。そして、計73門ある大砲から数十発の空砲を発射します。これは前回の交渉に失敗したビドルの件や、中国との交渉時に有効だった近代的な軍事力でもって圧力をかける、「友好的に訴えかけるよりは、恐怖に訴えたほうが効果的」という経験から得た威嚇行動です。

幕府はペリーからアメリカ大統領の親書を受け取りにペリーのもとへ役人を派遣しますが、ペリーは役人の階級の低さを理由に親書を渡しませんでした。「親書は高い階級の役人にしか渡さない、もしくは兵を率いて上陸し将軍に直接手渡すかだ」と脅迫めいた要求をつきつけます。

この時の将軍、第12代将軍徳川家慶は病に倒れていて、重大な政治的判断をできる状態ではありませんでした。老中阿部正弘は「親書を受け取るくらいであれば」と、仕方なくペリーに上陸の許可を出します。幕府の代表として浦賀奉行の役人と会見したペリーは親書を手渡します。幕府側は将軍が病気を理由に回答に1年の猶予を要求しました。ペリーはこの要求を聞き入れ、1年後に再び江戸で交渉の場を設けることとなりました。

幕府との会見後ペリーは浦賀からさらに北上、江戸を見渡せるほどの距離まで船を進め幕府をさらに威嚇します。こうして徹底して高圧的に日本側に要求をつきつけることに成功したペリー艦隊は、江戸を離れイギリス領香港に向かいます。

早すぎる2度目のペリー来航!ついに開国へ!

ペリーが日本から去ったわずか10日後に将軍家慶が死去します。さらには後継者の徳川家定も病弱で、とても重大な政策を決定できるような人物ではありませんでした。阿部正弘は幕府内外、庶民に至るまで外交について意見を求めますが解決の糸口は見えません。阿部のこの弱気な行動に諸大名が幕府に対しての不信感を募らせ、結果的に幕府の弱体化につながっていきます。

幕府の混乱した政情をを知ったペリーは、1年の猶予を与えるという幕府との約束を破り、わずか半年後、1854年2月13日(嘉永7年1月13日)再び浦賀に来航します。この時ペリーは計9隻もの大艦隊で江戸湾に現れ、幕府に大きなプレッシャーをかけました。この国政の混乱の隙を逃さないというペリーの卓越した外交手腕がうかがい知れます。

 

日米和親条約

突如江戸湾に現れた大艦隊に動揺した幕府とペリーの協議は1ヶ月にも及びました。幕府側が協議に対してその場しのぎの対応を繰り返し、交渉を長引かせようとしたためと言われています。3月31日、ペリーは500人程の将校らを引き連れ横浜村(現在の神奈川県横浜市)に上陸し、ついに”日米和親条約”が締結されます。この時をもって、日本は開国、第3代将軍・徳川家光から続いた鎖国政策が解かれることになります。

この条約の内容は大まかに説明すると、以下のようになります。

・アメリカの船舶に食料・水、燃料を供給すること

・下田と函館の開港、下田には領事を駐在させること

・今回の条約で幕府が認めなかった決めごとを、今後別の国に許可した際はアメリカにも同様に許可すること(最恵国待遇条約)

日米和親条約では貿易に関する”通商条約”は結ばれませんでした。ペリーが通商条約を結ばなかったのは、このまま圧力で押し通すと幕府側の抵抗が強まるだろうということと、そうでなくても近い将来に必ず通商条約にたどり着けるだろうと考えていたかからです。実際に日米和親条約からわずか4年後、貿易事項を盛り込んだ”日米修好通商条約”がペリーの思惑通り締結されます。

その時江戸の人々は…?

ところで、ペリーの黒船対して江戸の人々、民衆はどのように反応したのでしょうか?

ペリー艦隊が威嚇の為に数十発の空砲を発射しましたが、この空砲発射は日本側に事前に通告されていました。江戸の町民にもその旨は伝わっていたものの、その砲撃の音に江戸は大混乱しました。しかし、混乱は最初だけで、その後は花火を楽しむような賑わいをみせたそうです。ペリー艦隊が停泊した浦賀では黒船をひと目見ようと見物人が集まり、さながら観光地のよう賑わいとなったそうです。中には小舟で勝手にアメリカ船に乗船を試みる人もいたそうで、ペリーの日記や公文書からはこのように好奇心旺盛な日本人の性格に好意的な印象をもっていたと記されています。

混乱する幕府とは反対に民衆は黒船来航を楽しんでいたような様子が伺えますね。

 

不平等条約と江戸幕府終焉

戊辰戦争(豊後橋で発生した戦闘)

戊辰戦争(豊後橋で発生した戦闘)/wikipediaより引用

ペリーの黒船来航をきっかけに時代は幕末へと向かいます。日米修好通商条約という不平等条約、批判を浴びる大老・井伊直弼、湧き上がる攘夷論、そして明治維新へとつながっていきます。

 

日米修好通商条約

1856年7月21日(安政3年)日米和親条約により下田に日本初の総領事としてハリスが赴任します。貿易に関する通商条約を結ぶ事を目的としていましたが、ここでも幕府側の及び腰な対応に振り回され、将軍・徳川家定に謁見するまでに16ヶ月も要しました。

江戸幕府は国内情勢の混乱から、アメリカと貿易をはじめても利がないと主張しますが、ハリスは強硬な態度で貿易開始を迫ります。さらに、清と戦争中のイギリス、フランスが日本に侵略する可能性があり、それを防ぐ為には日米の関係を強めるほかないと説得します。

度重なる交渉の末、1858年7月29日(安政5年6月19日)、ついに”日米修好通商条約”が締結されます。しかし、この条約は日本が不利な内容が数多く含まれる、所謂不平等条約でした。不平等とされる点は以下のようになります。

・治外法権:アメリカ人が日本で犯罪を起こしても日本側の法律で裁く事が出来ないというものです。アメリカ人を逮捕、取り調べすることが出来ないというものです。

・関税自主権がない:関税を決める権利を日本側が持たないため、産業革命で安価で大量に作られた製品が国内市場に流入してしまいます。輸出に関しては外国のアメリカの商社によって行われたので日本への利益は無いに等しいものでした。

・引き継がれた最恵国待遇条約:”治外法権”は後に”生麦事件”を引き起こし、イギリスと薩摩藩が”薩英戦争”を引き起こす原因となったと言われています。この戦争が薩摩藩を本格的に倒幕に踏み出させるきっかけとなりました。

 

外国人を追い払え!尊王攘夷論の台頭!

日米修好通商条約によって、横浜、神戸、函館、長崎、新潟が開港し、さらには同様の条約をイギリス、ロシア、オランダと締結します。外国人の居留も認めたので、開港地では洋館や教会が建ち並びました。

そして外国と貿易が始まると日本経済は大混乱してしまいます。農産物と生糸が大量に輸出され国内産のものが品薄になったところに、安価な外国産の織物が輸入され、国内の繊維産業は大打撃を受けます。さらに銀貨が大量に流出したため、貨幣価値が下がり物価の混乱を招いてしまいます。

こうした混乱した情勢から武力をちらつかせ不利な開国を迫る西洋人や西洋文化を日本から追い出そうという考え方が生まれます。これを攘夷論といいます。

日米修好通商条約は天皇の許可を得ずに結ばれたため、幕府は天皇を尊ぶ”尊王論”を持つ諸藩大名やや武士から大バッシングをうけます。この頃から尊王論と攘夷論が結びつき、”尊王攘夷論”が台頭していきます。

 

開国倒幕!新しい時代の幕開け!

攘夷思想を基に1863年(文久3年)から翌年にかけて長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの間で下関戦争、同年薩摩藩とイギリスの間で薩英戦争が起きます。西洋列強の力を身をもって知った薩摩、長州は攘夷は不可能と判断します。両者は攘夷よりも積極的に海外から新技術や知識を取り込み、西洋列強に対抗する力をつける方が大事だと考えました。

この頃になると大老・井伊直弼の独裁、井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)、さらに国内諸藩の圧力によって江戸幕府の権力はすっかり弱まっていました。すると頼りない幕府を倒し新しい政府を起こそうという動きが薩摩、長州らの中から出始め、幕府に圧力をかけていきます。

ついには第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上する”大政奉還”を行い、265年続いた江戸幕府は終わり、新しい時代”明治”が始まります。

日本史の大転換点、ペリーの黒船

嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航
嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航/wikipediaより引用

アジアへの市場開拓を目的としたペリーの黒船来航は、約200年続いた鎖国の日本を開国させ、江戸幕府の存在を揺るがし、明治政府が樹立するきっかけとなりました。その後日本は西洋列強に追いつこうと急速的に近代化を進め、西洋列強と二度の大きな戦争を経験することになります。

もし、ペリーが開国を果たしていなかったらどうなっていたのでしょうか?西洋列強がこぞってアジアに進出していたという時代の流れから日本が開国を免れることはできなかったでしょうが、これがロシアやイギリスが先だった場合、今の日本の歴史は大きく変わっていた事でしょう。その当時の日本周辺の各国の動向からいろいろと想像を巡らせてみても楽しいかもしれませんね。

 

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