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歴史

第一次世界大戦はなぜ勃発した?原因と日本への影響をわかりやすく解説!

第一次世界大戦は1914年に勃発し1918年に終結した人類史上初の世界大戦です。この大戦の犠牲者は900万人を超え、負傷者は2000万人を超えました。この凄惨な戦争がなぜ始まり、どの様な経過を経て終結したのかを、この記事では見ていきましょう。

 

第一次世界大戦はこうして始まった!

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1914年に始まった人類初の世界戦争である第一次世界大戦は、900万人以上もの犠牲者を出した大きな戦争です。この戦争は従来の戦争とは違い、「総力戦」で戦われていました。それまで戦争といえば軍人同士が戦うものでしたが、この大戦では、いやおうなしに民間人をも巻き込んでいきました。なぜこのように悲劇的な戦争は始まってしまったのか、その経緯を詳しく見ていきましょう。

 

サラエヴォ事件と戦争の勃発!

バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアに併合されていました。この地域にはスラブ系住民が多く、彼らは、パン=スラブ主義を掲げオーストリアの支配に対して反対運動を起こしていました。1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナント大公夫婦が、セルビア人に暗殺されます。この暗殺事件をサラエヴォ事件と言い、この事件にオーストリア政府は激怒します。事件の黒幕はセルビア政府で、オーストリアはセルビアに対して最後通牒を突きつけます。しかし、期日になってもセルビアからの返事がなかったため、1914年7月28日、オーストリアがセルビアに対して宣戦布告をします。4年にも渡る第一次世界大戦の火蓋がこうして切られたのです。

 

地球を二分!連合国と同盟国

第一次世界大戦は、2つの勢力に分かれて戦われました。1つ目の勢力を連合国といい、イギリス・フランス・ロシア、後に日本・アメリカが加わります。もう1つの勢力を同盟国といい、ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアなどから構成されていました。第一次世界大戦は1914年から1918年にかけて戦われましたが、最終的には連合国と同盟国に別れて戦いました。

 

第一次世界大戦の拡大

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バルカン半島で始まった戦争は、戦線がしだいに急拡大し、ヨーロッパ全土へと広がっていきます。戦争はドイツ軍が中立国ベルギーに攻め込むことで更に大きくなります。ドイツ軍はシュリーフェン・プランという作戦をもとにフランスを短時間で攻略しようと試みます。中立国ベルギーを突破し、北フランスからフランス全土に攻め込もうとしたのです。しかしここでドイツ軍にとって思わぬ誤算がありました。マルヌの戦いにおいてフランス軍の猛反撃が始まったのです。

 

凄惨な戦いの始まり!マルヌの戦い

1914年9月、ドイツ軍はシュリーフェン・プランに基づき、大軍をベルギーから侵入させ、パリの西方に向かわせました。パリの西側を迂回する計画でしたが、現地指揮官は途中で功を焦って方向を転じパリの東側に向いました。移動中のドイツ軍をイギリスの偵察飛行機が発見、フランス軍が急襲し、好機を作りました。パリ東方のマルヌ川付近での会戦は、ドイツ軍のモルトケが安全を期して戦線を後退させたので、ドイツ軍の進撃が止まりました。こうして当初の6週間でパリを陥落させるというドイツの戦略がくずれ、長期戦の様相を呈することとなり、いわゆる西部戦線での膠着した塹壕戦に移行していきました。

 

膠着状態が続く西部戦線!

マルヌの戦い以来、西部戦線は塹壕戦となり、戦況は膠着状態になりました。塹壕とは、砲撃や銃撃から身を守るために使う穴や溝のことで、両軍が塹壕を使い、機関銃の投入によって防御側の優位性が高まったことから、戦争は両軍が睨み合い長期化していきました。また、東部戦線でも膠着状態となり、このため第一次世界大戦は一層混迷を深めていきました。

 

要塞へ突撃!ヴェルダンの戦い

ヴェルダンは、現在のフランスのロレーヌ県北部、ベルギー国境の近くの地点にあります。かつて、ヴェルダン条約が締結された場所にあります。第一次世界大戦で1916年2月~6月、フランス軍のヴェルダン要塞に向けて、ドイツ軍が総攻撃を行って、大戦最大の開戦が行われたところです。このヴェルダンの要塞は当時世界最強の要塞として知られていました。ヴェルダンの戦いでは莫大な量の砲弾が使用され、フランスは31万5千、ドイツ軍は28万1千の死傷者を出しました。結果的にフランス軍は防衛することに成功し、司令官ペタンの名声が上がりました。

 

戦車のデビュー!ソンムの戦い

第一次世界大戦で1916年6月~11月、北フランスのソンムでドイツ軍に対するイギリス・フランス連合軍の総攻撃が展開されました。イギリス軍のヘイグ将軍は、まだ実験段階だった戦車をはじめて実戦に投入しました。戦闘は全くの消耗戦となり、イギリス軍に42万、フランス軍に20万、ロシア軍に45万の犠牲者を出し、勝敗無く終わりました。

 

第一次世界大戦の終結!

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凄惨を極めた第一次世界大戦も遂に終結を迎えます。ここでは塹壕戦に代表され得る膠着状態の解消がどの様に行われたかを見ていきましょう。

 

立ち上がる民衆!ロシア革命

ロシアでは、当時ニコライ2世による政治が行われていましたが、貧しい国民は苦しみ、しかも戦争で余計に犠牲を強いられていました。そんな中、1917年、レーニンの指導により革命が勃発、皇帝を処刑し世界初の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦が成立しました。これにより、ロシアは第一次世界大戦から戦線離脱するのです。

 

形勢逆転!アメリカ合衆国の参戦

総力戦のなか、各国は相手陣営の経済を疲弊させるため、海上封鎖などを行いました。

連合国側に制海権を握られたドイツ軍は、1917年にUボートを使って無制限潜水艦作戦をとるようになります。 これは、敵陣営に関係する船舶に対して、国籍問わず潜水艦が警告なしで攻撃するという作戦でした。 アメリカ合衆国は長い間中立を保っていましたが、1915年にドイツの潜水艦がイギリスの客船を沈没させたルシタニア号事件で多くのアメリカ人が犠牲になって以来、反ドイツ感情が高まっていたため、1917年4月、アメリカ大統領ウィルソンはついに参戦を決意します。 中立であったはずのアメリカが参戦したことにより、戦況は一気に連合国側にとって有利になりました。

 

海軍の蜂起!ドイツ革命の勃発

遂にドイツ国内で革命が起こります。この革命をドイツ革命とよび、ドイツ皇帝を頂点とする帝政は倒されてしましました。イギリスやアメリカといった国外の敵と戦っていたドイツは、ドイツ国民によって倒されてしまったのです。なぜそのようなことが起こってしまったのか。それは、 相次ぐ戦場での敗北と経済の混乱の結果、1918年11月3日のキール軍港における水兵の反乱を発端に特にドイツの都市に革命が広がったからです。また、軍隊の一部も革命側に転じたため同月 10日にウィルヘルム2世はオランダに亡命したのです。皇帝が国外逃亡をした後、政権をとった社会民主党中心の人民代表委員会は、11日に連合国と休戦協定を結びました。こうして第一次世界大戦は終結したのです。

 

第一次世界大戦とは何だったのか!?

900万人以上の犠牲者を出した未曾有の大戦争である第一世界大戦は、その後の世界にどの様な影響を与えたのでしょうか。各国別に見ていきましょう。まず、ドイツ・オーストリア・トルコ・ロシアの帝国が崩壊しました。これらの国々は、皇帝が国を率いる帝政でしたが、第一次世界大戦終結後は、共和国もしくは共産主義国家へと生まれ変わりました。ここで特筆すべきはロシアでソヴィエト連邦が誕生したことです。ソヴィエトは世界初の共産主義国家で、後の東西冷戦の一角を担う大国がここに誕生しました。続いて、アメリカはヨーロッパに多額のお金を貸して、一躍債務国から債権国になり、未曾有の繁栄を極めます。また、ヨーロッパが戦場になり破壊しつくされたことにより、無傷のアメリカへ世界の中心が移りました。一方の日本は、アメリカと同様に国土が戦場にならなかったことから大きな痛手を受けず、結果として国際的地位が上昇しました。このように、第一次世界大戦の終結後の世界は、自分の国が戦場になったヨーロッパとその他の国で明暗が別れたようです。

 

第一次世界大戦の悲劇をわすれないために

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第一次世界大戦はセルビア人の一発の銃弾で始まりましたが、戦争が終わるのに4年間という歳月がかかりました。戦争を始めるのは簡単だけれど、終わらせるのは難しいことを改めて認識させられますね。その戦争の終結ですが、最終的にドイツを倒したのが英仏露ではなく、ドイツの民衆であったことは意外な戦争の終わり方でした。彼らは戦争に嫌気が差して立ち上がったのですが、本当に戦争を終わらせてしまったことは驚きですね。この長い戦争は悲劇の連続で、900万人以上の人が亡くなりました。このような悲惨な戦争が二度と起こらないようにしたいですね。

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