金栗四三の記録!いだてん主役のマラソン世界最長54年8ヶ月とは?

42.195km、長距離走の花形競技マラソン。2018年7月現在の世界記録はケニアのデニス選手の2時間02分57秒。いわゆる市民ランナーの平均が男性で4時間30分、女性で5時間ほど。そして、ほとんど知られていないのが世界最「長」記録が存在するという事。さらに記録保持者は日本人で、なんと2019年のNHK大河ドラマの主役として描かれます。演じるのはあの歌舞伎役者、中村勘九郎さん。脚本はNHKでは朝ドラ「あまちゃん」以来2度目の登板、宮藤官九郎さん。大河ドラマスタート前に偉大なマラソン最長記録を予習してみましょう!

 

世界最遅記録!「54年8か月6日5時間32分20秒3」

(金栗四三/wikipediaより引用)

中村勘九郎さんが演じるのは「金栗 四三」(かなくり しそう)。この方がマラソン世界最長記録保持者です。その記録は1912年(明治45年)に開催されたストックホルムオリンピックでの「54年8か月6日5時間32分20秒3」。54年?と思いますよね。ただ足が遅いだけではこんな記録はうまれないはず。一体何があったのでしょうか?その背景には感動的なストーリがあるのです。いかにしてこの記録が生まれたのか、金栗四三の生い立ちから見ていきましょう。

 

”いだてん”小僧の生い立ち

金栗四三は1891年(明治24年)、熊本県玉名郡春富村(現在は和水町)に産まれ、熊本の雄大な自然のなかでのびのびと育ちました。しかし、体は丈夫かといえばそうでもなく、どちらかといえば虚弱体質で幼少の頃は家族に心配をかけていたそうです。しかし、小学生にもなれば虚弱体質どころか一人前のいたずら小僧に成長します。彼の小学校への通学路がマラソンランナーとしての礎を築いたようで、なんと片道6km、往復で12kmの砂利道を、ワラジを履いて通っていたそうです。そんな通学のなかで自然と、「2回吸って、2回吐く」、呼吸でリズムをとるという現代のスポーツ理論に近いものを自然と身につけていたというから驚きです。

本格的に長距離ランナーとして開花していくのは東京高等師範学校(後の筑波大学)でのこと。東京高等師範学校はスポーツが盛んな学校で当時は毎年長距離走大会が行われていました。金栗はこのレースで入学直後に3位入賞し、校長から表彰をうけます。この校長とは「柔道の父」「日本体育の父」とも呼ばれている嘉納治五郎。この嘉納治五郎こそ日本のオリンピック初参加に尽力した人物で、金栗をオリンピックに導いたのです。

金栗はその後陸上部に入り本格的に長距離ランナーとしての訓練を始めます。誰よりも早く起き練習をし、誰よりも長く走り込みを続け、学内長距離走大会で優勝するまでに成長しました。その年、日本初のオリンピック国内予選が開催されることを知った金栗は、一層厳しく練習に取り組み予選会に臨みます。予選会当日は悪天候、泥まみれのレースとなってしまいますが、そんな悪条件のなかでも優勝、それも世界記録を27分も短縮しての「世界新記録」を出してしまいます。そして金栗は嘉納治五郎に呼び出されました。正式にオリンピックに出場することを言い渡されたのです。

こうして”いだてん”小僧がオリンピックマラソンランナーになったのですが…。

 

様々な過酷な条件が重なったレース

ストックホルムオリンピックが開催されるスウェーデンは、日本から見てほとんど地球の裏側。今なら成田空港からの直行便で、12時間あまりでストックホルムへ行くことができますが、時代は明治45年。金栗は汽車で新橋から神戸港、船で神戸港からウラジオストクへ、そこからまた陸路シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断し、全行程17日間もの大移動となりました。この長い旅程も、彼のもうひとつの「世界記録」を樹立するひとつの要因となりました。

ストックホルムに着いた金栗は本番にむけ練習を重ね、ついに1912年7月14日、レースはスタートしました。長い旅路の疲れも残り、さらには金栗は北米特有の「白夜」の影響から一睡もできずレースに臨むことになります。白夜とは、北欧で夏至前後に起きる、真夜中でも太陽が完全には沈まない気候現象のことです。加えて、この日は雲ひとつないとても暑い日。金栗はスタートの合図が聞こえたかどうかもわからず、前の選手にすがりつくように走り出しました。レースも後半25kmを過ぎたあたりのことです、視界がゆがみ、異常な脱力感、耐え難い苦痛に襲われます。それは熱中症の症状でした。

意識が混濁していく金栗はコース近くの農家ペトレ家に迷い込みます。そうして庭にあった椅子に倒れこんでしまいました。ペトレ家の人々は金栗にレモネードや食べ物を差し出し介抱しました。ペトレ家の人々は金栗だけでなく、同じように熱中症と思われる症状で倒れ込むランナーを介抱していました。こうして多くのレース参加者が棄権となっていきました。

 

レース中に「消えた」日本人ランナー

金栗はペトレ家で意識を失ったまま、目覚めたのはレースがとっくに終わった翌日の朝した。金栗は目覚めることができましたが、ポルトガルの代表フランシスコ・ラザロ選手は目覚めることなくレース翌日に急死してしまいました。それほど過酷なレースだったのです。

そんな金栗は地元でちょっとしたウワサになっていいました。「消えた日本人」として。レースを放棄してお茶会に誘われてご馳走になっていたとか、美女の亡霊に連れ去られてしまったとか、森に迷い込み亡くなってしまい未だに走り続けているなど、いわゆる都市伝説のような怪奇話が生まれてしまいました。

 

55年続いたストックホルムオリンピック

宿舎に戻った金栗は冷静でした。敗因を認め、次に活かそうと前向きな気持ちでいました。金栗はお世話になったペトレ家に挨拶に行き、帰国の途につきます。

その後の金栗は教師の道に進みながらも競技者として活躍し、あの「箱根駅伝」の発案者のひとりとしても有名です。またアントワープオリンピック、パリオリンピックと2大会続けて参加し、女子スポーツ教育振興にも取り組むなど日本のスポーツ界においての多大な功績を残しています。こうした種々の活躍が称えられ、金栗はスポーツマンとして初めて紫綬褒章を授与されました。

とても充実したスポーツマンとしての人生、金栗も還暦をとうに過ぎた76歳の時のことです。驚くべき知らせがストックホルムから届きます。「あなたはまだゴールしていません」と。

 

棄権の意思が受理されていなかった!

1967年、スウェーデンのオリンピック委員会がストックホルムオリンピック55周年式典開催に向けて当時の記録を調べていたところ、金栗の記録は「競技中に行方不明」として扱われていました。つまり、棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっていなかったのです。これに気づいたスウェーデンのオリンピック委員会は55週年記念式典に金栗を招待、ゴールラインを用意することにしました。

 

長い長い道のりの先のゴールテープ

金栗はストックホルムの式典会場に赴きました。式典の競技場をゆっくりと走りだし、ついにゴールテープ切ります。すると式典会場内に、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」というアナウンスが響き渡りました。このタイムはオリンピック史上最も遅い記録となりました。おそらく今後更新されることはないでしょう。金栗はゴール後、「長い道のりでした。この間に妻をめとり、6人の子供と10人の孫に恵まれました」と挨拶、会場は大喝采。そして、倒れた金栗を介抱してくれたペトレ家を訪れます。金栗は大会以来ペトレ家と文通を続け交流をもっていました。半世紀以上の時をへ経て再開、あの時と同じようにレモネードをふるまわれたそうです。

 

まとめ:金栗四三の記録はマラソン史上最長の感動ストーリー

金栗四三のマラソン史上最長記録のストーリー、いかがでしたでしょうか?死者が出てしまうような過酷なレース、倒れた金栗を介抱してくれたペトレ家との長きにわたる親交、ストックホルムオリンピック委員会の55周年記念式典での粋な計らい。これらが2019年1月から大河ドラマとして描かれると思うとわくわくしてきますね。そして2020年東京オリンピックでも間違いなく感動的なストーリーが生まれるはずです。今から期待して待ちましょう!

 

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