田畑政治とは何者?東京五輪を招致した大河いだてんの主役を解説!
2020年東京オリンピックの前年2019年1月に、NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の放送が始まります。日本初のオリンピック出場を果たした1912年ヘルシンキオリンピックから、戦後復興の象徴ともなった1964東京オリンピックまでの時代を題材とした本作。脚本は観る人のこころをわしづかみにし、NHK朝ドラ「あまちゃん」では誰でも楽しめる作品を見せてくれた宮藤官九郎。物語は二人の主役をリレー方式で繋いでいきます。その二人とは、日本人初のオリンピックマラソンランナー「金栗四三」(かなくり しそう)、1964東京オリンピックを成功に導いたキーマン「田畑政治」(たばた まさじ)の二人。ここでは阿部サダヲが演じる「田畑政治」にスポットを当て、いかにして戦後混乱の中で日本水泳界を牽引し、東京オリンピックを開催まで導いたかをご紹介します。
田畑政治は日本水泳界の礎を作った男
田畑政治は1898年(明治31年)12月1日に静岡県浜松市中区成子町の地元でも有名造り酒屋で生まれます。とても裕福な家庭で浜名郡舞坂町に別荘を持っており、そこからほどちかい浜名湾の存在がその後の彼の人生を大きく左右するのでした。
浜松の名士に生まれ水泳の才能を発揮
浜名湾は古くから水泳が盛んなところでした。この当時の水泳は現在のようにタイム競うものではなく、気候条件に左右される事もありえるなかで1等を競う「古式泳法」とよばれるものでした。子供の頃から浜名湾で泳ぎを鍛えていた田畑。田畑の出身校でもある浜松一中(現在の静岡県立浜松北高等学校)などの卒業生らが「遠州学友会水泳部」を立ちあげると、田畑もこれに参加します。田畑はここでエースとして活躍してみせます。
病気から指導者の道へ、日本水泳界の未来を担う
水泳選手として順風満帆に実績を積み重ねていた田畑ですが、中学(浜松北高校)4年生の時、慢性盲腸炎と大腸カタルを併発してしまいます。水泳選手としての道は諦めざるをえません。なぜならば、医者が「泳いだら死ぬ」とまで言うほどに重い病気であったためです。子供の頃から浜名湾で鍛え上げてきた水泳選手としての道を断つには、あまりにも早すぎました。
しかし、田畑は前向きでした。水泳の指導者としての道を選択します。旧制浜松中学校で後輩の指導に尽力し、その才を発揮して大会優勝を勝ち取ります。田畑はそれだけでは終わりません。ある目標を掲げます。「浜名湾を日本一にする!」将来東京オリンピックを成功に導く男らしい壮大なものでした。大正5年浜名湾周辺の水泳部をまとめた組織「浜名湾遊泳協会」を発足、浜名湾全体での水泳の技術向上を目指しました。
田畑は東京帝国大学(現在の東京大学)に進学しますが、休みの度に浜名湾へ帰り後輩の指導や水泳の普及活動に奔走します。この頃大阪の茨木中学が長距離泳法にクロールを採用し注目を集めていました。田畑はこれに負けじと浜名湾の後輩達にもクロールを指導、日本一の座を虎視眈々と狙い続けます。
しかし、日本一になりたくても、当時の国内には水泳の全国大会がそもそも存在しないという矛盾を抱えていました。そこはさすがの田畑、全国大会を開催するべく関係各位に交渉、地元有力者までを味方につけます。大正10年、全国から強豪を招待し全国大会が開催されます。残念ながらこの大会では茨木中学に優勝の座を渡してしまいますが、その2年後には田畑率いる浜名湾が優勝、日本一になるという目標は見事達成されたのでした。そして田畑はさらなる高みを目指します。「水泳で世界一になる」。
田畑政治は「オリンピック第一主義」
東京帝国大学を卒業した田畑は朝日新聞社に入社。政友会を担当し政治家とのパイプづくりを進めます。そのかたわら、休みが取れると浜名湾に戻って後輩の指導、水泳の発展、普及活動を続けます。その活動が認められ、後年「日本陸上水上競技連盟」の理事に任命されます。そこで田畑は「オリンピック第一主義」を提唱したのです。
オリンピックで水泳大国日本をアピール
田畑は昭和3年アムステルダム・オリンピックに情熱を傾けました。日本陸上水泳競技連盟としての初のオリンピック。政治記者時代に懇意になった鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父)から紹介された大蔵大臣、高橋是清から補助金を取り付けていた事もあり、期待を裏切る事は許されません。結果、見事競泳男子平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得、その他にも銀メダル1個、銅メダル1個と堂々たる活躍を世界に見せつけ、水泳大国日本をアピールすることに成功します。昭和7年ロサンゼルスオリンピック、昭和11年ベルリンオリンピックでもメダルを量産、その後も選手の育成のために組織改革、水泳専用プールの設置など日本水泳会を牽引します。
こうした活躍もあってか、昭和15年(1940年)、紀元2600年記念行事(神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事)の一環として、東京都は東京オリンピック招致計画を打ち出しました。
失われた1940東京オリンピック
史上初のアジア開催オリンピックとしても期待を集めた1940年東京オリンピック。1929年に国際陸上競技連盟会長の来日、1930年にドイツで開催された世界陸上競技選手権の視察結果などから、1931年東京市会において「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」の満場一致をもって計画は本格的に始動します。東京以外に立候補した都市は「ヘルシンキ」「ローマ」の2都市。最有力候補地はローマとみられていました。そこで、イタリア日本大使を通じイタリア首相ムッソリーニに候補地から辞退するよう直接交渉を持ちかけ、ムッソリーニはこれに快諾します。そしてヘルシンキとの招致対決に勝ち、昭和15年1940年東京オリンピック開催が決まります。
しかし、当時の複雑な国際情勢から、国内からも反発の声が上がってきます。さらに1937年に盧溝橋事件が勃発し、日本と中国は戦闘状態に突入。戦域は拡大していき日中戦争に突入すると、戦線が伸びるにつれ国内の資源も枯渇してゆきます。当然オリンピック競技会場の建設資源確保すら難しくなっていきます。ついには軍部からスポーツ活動自体が禁止になるよう圧力がかかり、やむなく東京オリンピックは開催中止となります。ちなみに開催地はヘルシンキへと変更されましたが、これも第二次大戦の激化に伴い中止となっています。
そんな情勢下、田畑の「日本陸上水上競技連盟」も解散を命じられ、軍部は統制下にある「大日本体育会」に集約しようとします。田畑はこれに応じず「日本陸上水上競技連盟」を解散させませんでした。田畑は終戦の2ヶ月後、昭和20年10月には早速動き出します。組織名を「日本水泳連盟」にあらため、理事長に就任。除名処分を受けていた国際水泳連盟へのいち早い復帰、水泳から日本のスポーツの復興に取り組んでいきます。田畑の考え方は一貫していました。オリンピックへの復帰、「オリンピック第一主義」です。
オリンピック男の執念、1964東京オリンピック開催へ
昭和22年、田畑は日本オリンピック委員会総務主事に任命されます。昭和23年、1948年ロンドンオリンピックへの参加を目指しますが、敗戦国であるという理由から認められる事はありませんでした。さらには、「フジヤマのトビウオ」の異名を持つ古橋廣之進選手が400mの世界新記録を樹立するも、国際水泳連盟から脱退させられていたため公式な記録としては認められませんでした。田畑はこれらに激怒、奮起し、水泳及び各種競技の国際連盟への復帰、日本オリンピック委員会のIOC加盟に向け動きだします。様々なルートで地道な交渉を続け、ついには占領下にある日本の総司令ダグラス・マッカーサーに直訴します。結果、スポーツに理解があったマッカーサーの後押しもあり日本はIOCに復帰を果たすのでした。
IOCに復帰を果たした事により田畑は一度は潰えた野望を再び抱きます。東京オリンピックの開催です。1952年ヘルシンキオリンピック視察から帰国した田畑は、東京でのオリンピック開催に確信を持っていました。ヘルシンキ自体が小規模な都市であったため東京のよう都市でもオリンピック開催が可能であることを証明してくれ、またオリンピック開催の莫大な金銭的問題も観光収入によって解決ができると判明するなど、非常に前向きな材料ばかりが集まったためです。実際に招致合戦がスタートしても有力な協力者が現れます。日系2世で当時、アメリカ国内でスーパー経営に成功していたフレッド・イサム・ワダは、私費を投じて諸外国を訪れ票集めに奔走、中南米各国の日本への投票を確約させます。ヨーロッパ方面では元皇族の竹田恒徳が投票権を持っていた貴族たちに交渉、ベルギーなどから投票の確約を得ます。そうして臨んだ昭和34年IOC総会では日本が圧勝し、念願の1964年東京オリンピックの開催が決定しました。
まとめ:田畑政治の意思が現代に引き継がれる
1964年の東京オリンピックの開会式 / wikipediaより引用
こうして1964年10月10日、東京オリンピックは開会しました。田畑はオリンピック組織委員会の最前列に立ち選手団にエールを送り続けました。2週間に渡って行われた各競技で、日本は合計29個ものメダルを獲得。しかし、日本の水泳チームの成績は決して芳しいものではありませんでした。田畑は、それ以降のオリンピックにおける日本水泳チームの地位向上に向けて早速動きだし、その活動の成果が現在に至るまで脈々と受け継がれています。こうして連綿とつながった歴史の中で開催される2020年東京オリンピック。その前年である2019年に日本のオリンピック史を描く大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」が放送されるとは、非常にワクワクしますね。阿部サダヲさんがどんな田畑政治を演じるか、想像もつきませんが、今から楽しみでたまりません。
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