織田信長のゆかりの城をまとめ!滋賀県に位置する安土城の特徴は?

織田信長の城と聞いて何を思い浮かべますか?やはり失われた城の安土城ではないでしょうか?現存していないことでかえって想像力が刺激されるのでしょう。時代劇などでとても絢爛豪華に描かれているのを見た人も多いと思います。織田信長の城についてまとめてみましょう。

 

織田信長が住んでいた城は5つ

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生まれてから本能寺の変で亡くなるまで、織田信長は合計5つの城に住みました。一つ一つの城はどのような城だったのか、またそれぞれの城に住んでいた時に信長が何をしていたのか、見ていきたいと思います。

 

出生の地、那古屋城

那古野城(なごやじょう)はのちに長篠で信長と戦うことになった今川義元の父、今川氏親が築城した城であり、織田信長が生まれた城だとされています。「なごや」という読みから連想されるように、場所は現在の名古屋市中区にありました。那古野城自体は現在の名古屋城に取り込まれて残っていません。信長の父織田信秀が計略により今川氏を追放して城を奪い、のちにこの城で織田信長が生まれる事になったとされています。織田信長はこの城で育ち、父から家督を継ぎました。いわば、出生から成人にいたるまでの子供時代を過ごした城です。「尾張のおおうつけ」と呼ばれることになったさまざまなエピソードは、信長の那古屋城時代に生まれたものです。

 

家康と同盟を結んだ地、清州城

清州城
清州城

1955年、22歳の織田信長は尾張を統一し、清州城の城主となりました。以後約10年間この城を居城としますが、この時代も信長にとって重要な事がいくつもありました。今川義元を破り、天下に信長の名を轟かせた桶狭間の戦いに出陣したのもこの清須城からですし、のちの信長が天下統一に乗り出していくうえでもっとも重要な同盟関係となった徳川家康との間の同盟、清州同盟を結んだのもこの時代です。清州同盟以後、信長は天下統一へと進み、各地の反乱勢力と戦っていくのですが、その時に信長が抜擢した家臣たちをはじめとする信長軍団も活躍しましたが、同盟を結んでいた徳川軍も重要な役割を果たしました。歴史をみると、織田軍単独による天下統一というよりは、織田、徳川同盟軍が反乱勢力を撃破していったことがわかります。

 

美濃攻略の要、小牧山城

小牧山城
小牧山城

桶狭間の戦いに勝利し、清州同盟を結んだ織田信長はすぐに美濃攻めに取り掛かりました。その時美濃に近い拠点として選ばれたのが小牧山で、信長はここに小牧山城を築城し1563年から居城としました。城下町を作るなど長期的な居住を目的としていた節もあるのですが、実際には美濃攻めを終えるまでの4年間しか居城として使われませんでした。

 

いざ、天下取り!岐阜城

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岐阜城

美濃攻めを終えた信長は、新たな拠点を稲葉山に移し、「天下布武」の朱印を用いるなど天下統一の大事業に取り掛かります。中国の周の時代の文王が天下を治めた故事にちなみ、城と町の名を「岐阜」に改めました。なんと「岐阜」の名前は信長が命名しました。天下を意識した信長はこの後本能寺の変で倒れるまで、統一の野望を追っていく事になります。信長は1567年に岐阜城に入りましたが、のちに安土城ができると嫡男信忠が城主となりました。

 

天下人として築く安土城

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安土城

1575年の長篠の戦で武田勝頼を破った織田信長は同年11月に朝廷から権代納言など高い官位を与えられました。征夷大将軍でこそありませんでしたが、朝廷から「天下人」として公認されたことになります。一大名家としては家督や、美濃・尾張の領地を嫡男の信忠に譲りましたが、織田全軍の指揮権は信長自身が保有していました。こうして一大名から天下人へと立場を新たにした信長は、翌1576年に安土城の築城に取り掛かります。1579年に安土城が完成すると信長はそこに移り住み、これまで居城としていた岐阜城は信忠に譲りました。
安土城を琵琶湖の東岸に位置させた理由としては、岐阜城に比べて京都に近かったこと、琵琶湖の水運による利便性、越後(現在の新潟県)にも近く当時頻発していた一向一揆への備えになった事と、などが考えられます。

 

居住性に優れていた

織田信長は実際に安土城に住んでいました。これは当時としては画期的な事でした。これまで城というものはあくまで軍事拠点であり、戦闘の際の拠点となることが目的とされていたので、武将達は日常的に城で起居していた訳けではありませんでした。ところが安土城の場合、織田信長は天守閣に住み、家族も本丸付近に居住し、家来は山腹や城下の屋敷に居住していました。こうした形態はのちの城下町の中心としての城の位置づけを先取りするものと言えるでしょう。
安土城を作った目的は他にもありました。天下布武、つまり信長が天下人となった事を広く人々に知らしめる目的も大きかったのです。そのため独創的な意匠をふんだんに用い、非常の絢爛豪華な城となりました。
実際に住んでいた事や天下布武の目的から、居住性が高い城が要求されたのでしょう。

 

宗教色を強く残す

キリスト教を歓迎し、石山本願寺や比叡山延暦寺を弾圧した信長でしたが、キリスト教を歓迎した理由は、宗教的な理由というよりは西洋文化を取り入れたかった為です。本願寺や延暦寺を弾圧したのは彼らが信長の支配に反乱を起こした為めであり、それぞれの宗教に対して歓迎したり嫌悪したりといった考えを持ってていたとは言えません。織田信長は宗教に関心がある人ではなかったとされています。
しかし、安土城には天守閣の宝塔などに宗教色が色濃く出ています。天守指図によると宝塔の前に四畳ほどの小部屋があり、これはキリスト教の祈祷室をもしたものではないかと考えられています。天主内部に4階分の吹き抜けの空間があり、これはキリスト教の大聖堂を模しているのではないかという考えもあります。また場内に摠見寺という仏教寺院もありました。これらが信長の宗教心を反映しているのか、趣味的なものなのかは分かっていません。

 

防御策に乏しい

通常の城の場合、敵の侵入を防ぐために、場内の城は曲がりくねっているものですが、安土城の場合幅6メートルの直線の道が180メートルにわたって続き、防御目的といった事はほとんど考慮されていなかった事と思われます。信長が城の位置づけを軍事拠点から政治と経済の拠点へと転換した結果、防御策に乏しい城が出来上がったと考えられます。

 

まとめ:織田信長の居城

岐阜城からの眺め
岐阜城からの眺め

信長の居城についてみてきました。普通の武将の子供として過ごした那古屋城、才能をみせ基盤を固めた清須城、美濃攻略の拠点となった小牧山城、天下統一の大事業を始めた岐阜城、天下統一のため城の意味を軍事から政治経済へ転換した安土城。それぞれの城が織田信長の生涯の節目節目において重要な役割を果たしてきた事が分かります。

 

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