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歴史

バッハの生涯と作品まとめ!「音楽の父」と呼ばれた作曲家の人生とは?

私たちが普段耳にしている音楽。私たちにとってとても身近なもので、誰でも楽しむことが出来る芸術です。そんな音楽の「父」と呼ばれるほどに偉大な作曲家が、かつてドイツに存在していました。ヨハン・セバスティアン・バッハです。この記事では、音楽の父と呼ばれるバッハについてご紹介していきます。

バッハ
バッハ/Wikipediaより引用

 

 

ヨハン・セバスティアン・バッハの生涯

バッハ

バッハ/Wikipediaより引用

ここでは、バッハの生涯についてご紹介いたします。音楽の父と呼ばれたバッハは、いったいどのような生涯を送ったのでしょうか。

 

バッハ誕生~青年時代(1685~1715年)

1685年の3月31日(ユリウス暦では3月21日)、神聖ローマ帝国のアイゼナハ(現在のドイツ・アイゼナハ)で生まれました。バッハ家は音楽家の家系で、父ヨハン・アンブロジウスも音楽家でした。9歳の時に母を、10歳の時に父を亡くしたバッハは、兄の家に引き取られて勉強に励み、1700年にリューネブルクで修道院付属学校の給費生となりました。
1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職したバッハは、ヴァイオリンを担当することになりましたが、ヨハン・エフラーという人の代役でオルガンを演奏することもありました。オルガン奏者としての技術は素晴らしく、アルンシュタットの「新教会」に設置された新しいオルガンの試奏者としてオルガンを弾いたバッハは、そのままその協会のオルガニストに就任し、聖歌隊の指導も任されました。バッハがオルガニストを務めていたアルンシュタットの教会は、現在はバッハ教会とよばれています。

 

バッハがリューベックからヴァイマルに戻るまで(1706年~1714年)

リューベックに行き、オルガン奏者ブクステフーデからオルガンを学んだバッハですが、4週間の休暇の予定を3カ月以上も留守にしていたり、聖歌隊への指導不備などを問題とされて聖職会議にかけられてしまいます。
1707年の6月に、ミュールハウゼンに移り住んだバッハは、同地の聖ブラジウス教会のオルガニストに招かれます。同年にマリア・バルバラという女性と結婚し、7人の子宝に恵まれました。その子供たちのうち、長男フリーデマンと次男エマヌエルは音楽家として成功しました。
1708年にふたたびヴァイマルに戻ってザクセン=ヴァイマル公国の宮廷オルガン奏者に任命されました。しかし、ここでの待遇に不満を持ったバッハは1713年にハレのオルガニストの職に応募して採用されましたが、ザクセン=ヴァイマル公が昇給と昇進を提示したことを受けて、ヴァイマルにとどまります。1714年には楽団長に就任します。

 

ケーテン時代のバッハ(1717~1723年)

しかし1717年にバッハはケーテンに移り、アンハルト=ケーテン公国の宮廷学長として招かれ、ヴァイマルを離れる事となりましたが、ヴァイマル公は退職を認めず、バッハを1か月間投獄しました。
出獄したバッハはアンハルト=ケーテン公国の宮廷学長となります。恵まれた環境で世俗音楽を含む多くの作品をこの時期に作り上げました。1720年にアンハルト=ケーテン候レオポルトに随行した旅行の途中に、妻を亡くします。翌年に声楽家のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚、さらに13人の子宝に恵まれました。アンナとの子供の中では、末っ子のクリスチャンが音楽家として成功し、モーツァルトにも影響を与えたことで知られています。

 

バッハの晩年~死去(1724年~1750年)

1724年にライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(キリスト教音楽の指導者のこと)である「トーマスカントル」に就任し、以後1750年に亡くなるまでその地位にありました。ライプツィヒ市の音楽監督にもなり、宗教音楽を中心に様々な楽曲の作曲に励みました。宗教音楽の最高峰とよばれる「マタイ受難曲」もこの時期に完成されました。
1736年にザクセンの宮廷作曲家に任命されますが、1749年に脳卒中の発作によって倒れ、視力を急速に悪化させます。ほとんど失明状態になったバッハには、1750年3月にライプツィヒを訪れていたイギリスの眼科医、ジョン・テイラーの手による手術が行われますが、手術は失敗し、バッハは7月28日に65歳で亡くなりました。
余談になりますが、バッハが意識し続けた音楽家であるヘンデルもまた、ジョン・テイラーから眼疾の手術を受け、同じように失明しています。ヘンデルは失明した後も活動を続け、1759年に亡くなりました。バッハが亡くなってから9年後のことでした。

 

バッハの死後の評価について

生前のバッハは、オルガン奏者として高名ではありましたが、次世代の音楽家からは古臭いとされたこともあって、死後はほとんど忘れ去られようとしていました。しかしベートーヴェンやモーツァルト、シューマンといった作曲家の努力、そしてメンデルスゾーンの「マタイ受難曲」のベルリン公演(1829年3月11日)をきっかけとして、一般にも高く再評価が進みました。ベートーヴェンは、「バッハは小川ではなく大海である」と評しました。これは、バッハ(Bach)という単語が「小川」を意味する単語でもあったことにかけた、洒落の利いた賛辞でありました。
バッハの作品は「BWV」(バッハ作品目録)という作品番号に相当するものが広く使われています。この記事でもそれを用います。

 

バッハの主要な作品を解説

「マタイ受難曲」
「マタイ受難曲」自筆総譜/Wikipediaより引用

次はバッハの作品について。65年の生涯の中で1000曲を超える楽曲を作曲したバッハの作品を、ごく一部ではありますがご紹介します。

 

ブランデンブルク協奏曲

1721年に、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに献呈された協奏曲集です。ベルリンの国立図書館に自筆の譜面が残されています。それには、フランス語で「いくつもの楽器による協奏曲集」というタイトルが記されています。「ブランデンブルク協奏曲」という題名は、バッハの伝記を書いた人物であるシュピッタの命名によるものです。
それぞれ異なる時期に作られた、印象も異なる6曲の協奏曲から成っています。

 

マタイ受難曲、ミサ曲ロ短調などの宗教音楽

バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル時代に、多くの宗教音楽を作曲しました。
なかでもBWV244「マタイ受難曲」と、ほぼ同時期に書き始められたBWV232「ミサ曲ロ短調」はしばしばバッハの最高傑作のうちの一つに数えられています。
マタイ受難曲は2部全68曲、演奏時間3時間に及ぶ超大作です。「ミサ曲ロ短調」はバッハの声楽曲のなかで最高の作品と呼ばれることの多い作品で、バッハが最後に完成させた曲と言われています。

 

クラヴィーア(鍵盤音楽)の曲

バッハの時代は、ピアノよりもチェンバロやクラヴィコードといった楽器が普及していました。それらの楽器の技術習得のために作られた曲が2巻からなる「平均律クラヴィーア曲集」(BWV846~869が1巻、BWV870~893が2巻)です。1巻は1722年、2巻は1742年に完成しました。
ベートーヴェンのソナタ集が「ピアノの新約聖書」と呼ばれるのに対して、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は「ピアノの旧約聖書」と呼ばれます。
他には、チェンバロの独奏曲であるBWV971「イタリア協奏曲」はバッハが生きているころから人気がある曲で、バッハに否定的であったヨハン・アドルフ・シャイベという人物からも高い評価を受けているほか、現在でもCM曲に起用されるなど、バッハの代表曲としてみなされています。

 

オルガンの達人・バッハのオルガン曲

どれほど優れていたかは後述しますが、バッハはオルガンの名手として有名でした。
そのオルガン曲の大半は、1708年のザクセン=ヴァイマル公国のオルガン奏者時代に作られました。BWV565「トッカータとフーガ ニ短調」やBWV582「パッサカリアとフーガ ハ短調」のような演奏に高い技術を要する曲が多いですが、BWV578「小フーガ ト短調」のように平易で小規模であり、音楽の教科書にも載るような親しみやすい曲も存在します。

 

その他の作品

その他に、世俗音楽のような滑稽で親しみやすい作品ものこしています。
自身がコーヒー好きであったことから作られたコーヒー好きな娘と、コーヒーをやめさせようとする父を描いた「おしゃべりはやめて、お静かに」(BWV211、通称「コーヒー・カンタータ」)や、方言丸出しの歌詞で書かれ、民謡や流行歌の旋律まで盛り込んだカンタータ「わしらの新しいご領主に」(通称「農民カンタータ」BWV212)などが特によく知られています。
また、当時廃れはじめていた「リュート」という楽器(吟遊詩人が持っているあの楽器です)に注目して、リュート用の楽曲もいくつか作曲しました。

 

バッハにまつわるエピソード

バッハ

ベートーヴェンをして「大海」と言わしめた作曲家バッハにも、面白くて興味深いエピソードがいくつか存在します。そのエピソードを、いくつかご紹介します。

 

「音楽の母」ヘンデルとのエピソード

バッハは「音楽の父」と呼ばれていますが、「音楽の母」とよばれた作曲家も、もちろん存在します。それがヘンデルです。「ハレルヤ・コーラス」で有名な楽曲「メサイア」や管弦楽「水上の音楽」の作曲者として知られているヘンデルのことを、バッハは強く意識し続けました。そして事あるごとに会おうとしました。
1度目は1719年の5月に、帰郷していたヘンデルがいるハレというところから、4マイルだけ離れたケーテンにいたバッハが、会いに行ったときのことです。しかしバッハが到着した日にはヘンデルが出発した後であったため、会うことはかないませんでした。
2度目はその10年後、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル時代。ハレに滞在していたヘンデルに長男フリーデマンを派遣し、ライプツィヒに来てもらえないかと申し出ますが断られてしまいます。バッハは強くヘンデルを意識していましたが、ついに面会をすることはありませんでした。ヘンデルはバッハをあまり意識していなかったのかもしれません。

 

バッハはどれくらいオルガンが上手かったのか

オルガン奏者として生前から有名であったバッハ。いったいどれくらいオルガンが上手かったのかということについてご紹介します。まずバッハはオルガンの内部の構造にも精通していたと言われています。また、教会堂やホールの反響効果を精密に判別していました。各地でオルガンが新造・改造されるたびによくその場に招かれ、アドバイスとともに素晴らしい即興演奏を披露していたと言われています。
また、フランスの神童とまで言われたオルガニスト、ルイ・マルシャンとオルガンの腕を競うことになったのですが、対戦相手であるバッハのあまりの演奏の巧みさに、マルシャンは恐れをなして逃げ出したと伝えられています。

 

コーヒーとタバコが大好きだったバッハ

バッハはコーヒーが大好きでした。「コーヒー・カンタータ」とよばれる、コーヒー依存の娘と、それをやめさせようとする父親を描いた楽曲をのこしています。バッハ自身は一日に数十杯ものコーヒーを飲んでいたと言われています。
また、タバコも好んでいました。当時のタバコは現在のような紙巻きではなく、パイプに葉っぱを詰めて燻らすものや、「かぎタバコ」などが一般的でした。高級な嗜好品であったタバコをゆったりとくつろぐときにパイプに詰めて吸っていたそうです。「私はしばしばパイプによいタバコを詰めて」という楽曲も存在します。

 

ヨハン・セバスティアン・バッハの名言

平均律クラヴィーア曲集の自筆譜の表紙
平均律クラヴィーア曲集の自筆譜の表紙/Wikipediaより引用

最後に、バッハの遺した名言をご紹介します。数々の素晴らしい楽曲を残した音楽家でしたが、印象的な言葉も残しています。ここではそれをご紹介します。

 

バッハの名言1:音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない。

バッハはひたすらに神の栄光の為に作曲を続けていたと言われています。それは、宗教曲の譜面にラテン語で「イエスよ、助けたまえ」だとか「ただ神のみに栄光を」といった言葉を書き込んでいたことからも分かりますね。

 

バッハの名言2:音楽は世界語であり、翻訳の必要がない。そこにおいては、魂が魂に話しかけている。

「音楽は共通語」。音楽の父と呼ばれることのあるバッハらしい名言だと思います。世界中の人々が音楽を聴き、あるいは口ずさんでいる。このことは非常に深い喜びであるように筆者も感じています。

 

まとめ ~音楽の父とよばれたバッハ~

ライプツィヒ・聖トーマス教会前のバッハ像
ライプツィヒ・聖トーマス教会前のバッハ像/Wikipediaより引用

「音楽の父」と呼ばれるバッハ。クラシック音楽が好きな筆者の、一番好きな音楽家でもあります。
不思議と懐かしさを感じるような暖かい旋律の数々を世に送り出したバッハ。この記事を読むことで少しでも彼の作品等に興味を持っていただけたのなら幸いです。

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