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歴史

平清盛の生涯について ~武士初の太政大臣はどの様な人物?~

武士として歴代初の太政大臣まで駆け上がり、長く政治のトップに座り続けた平清盛。この記事では、彼の生涯について振り返っていきます。

 

平清盛の来歴

『天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代)
『天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代)/wikipediaより引用

 

平清盛は平安時代後期に平忠盛の長男として生まれています。少年期から高い政治的地位を与えられ、歴代の天皇・法皇と友好的な関係を築いていきます。大成してからは反抗勢力の一掃と日宋貿易による資金の獲得、天皇からの高い信用獲得など多方面に努めました。

 

平清盛の少年期

平清盛は有力な武家貴族である伊勢平氏のトップである棟梁、平忠盛の長男として生まれ、幼年の頃から白河法皇の妃である祇園女御が後見人として付いていました。祇園女御の権力もあり、弱冠12歳にして兵衛府の従五位下、左兵衛佐へ任じられます。

当時の基準で従五位下は貴族・華族の嫡男、最も継承位が高い子息である者に与えられる位階でした。平清盛は忠盛の「嫡男」ではありませんでしたが、強力な後ろ盾をもって異例の就任を果たしたという説が有力です。

 

政治的地位の獲得

平清盛が19歳の頃、父・忠盛が熊野本宮、後の熊野本宮大社の造営による功績を認められ、その恩恵として清盛は現在の熊本県に相当する肥後国の守へ任じられました。

その10年後、配下を連れて祇園社を訪れますが、神主から武装して境内に立ち入らないよう注意を受けます。配下が反発して争いが始まり、やがて撃った弓矢が宝殿に刺さるという事件が起きます。この事態に寺社各位は平忠盛および平清盛の放逐を直訴しますが、鳥羽法皇の取りなしによって免れます。

 

保元の乱

朝廷では、特に有力な公家の集まりである摂関家において、内部抗争の緊張が高まっていました。事の発端には1141年、崇徳天皇の退位後、鳥羽法皇が割り入って後継者を立てた事にあります。1156年に鳥羽法皇が崩御してから崇徳上皇と後白河天皇の緊張は本格化し、双方が挙兵します。平清盛は後白河天皇の側に付き、勝利をおさめます。

天皇家の争いに武士が起用された最初の戦いであり、この功績により天皇家からの信頼は高まります。これにより、平清盛は播磨守と大宰府の四等官、第弐へ任命されます。

 

平治の乱

保元の乱から3年後、後白河天皇の側近である信西と鳥羽法皇の寵愛を受けていた美福門院の間で緊張が高まり、高い軍事力を持つ平清盛が京都を離れたのを引き金に、美福門院側が留守をついて襲撃を行いました。

この一幕は信西側の敗北に終わり、後白河上皇と二条天皇が捕縛されます。帰路で顛末を知った平清盛は混乱状態に陥りますが、周囲の武士による激励や協力を得て京へ入ります。舞い戻った軍勢に襲撃実行者の藤原信頼は焦り、平清盛に協力を打診します。この行動の理由として、藤原信頼は自らの嫡男を平家の女性と婚姻させており、その繋がりに免じて平清盛が味方になってくれるだろうとの予測が挙げられます。

表向きは歓迎し、藤原信頼の嫡男である信親に護衛をつけて送り届けました。一方では信西を支持していた三条公教の説得を受け、後白河上皇と二条天皇の脱出・保護計画に同意しました。この計画は藤原惟方と藤原尹明の働きによって秘密裏に成功し、後白河上皇は仁和寺へ、二条天皇は平清盛の拠点である六波羅へ脱出を果たします。

天皇の脱出を知らせ回った藤原成頼により六波羅に各地の勢力が集結し、平清盛は藤原信頼と協力者である源義朝の討伐宣言を出します。

これを知った源義朝は驚愕し、同時に藤原信頼の浅慮を激しく批判します。もともと襲撃のために少数の配下を連れてきたのみであり、合戦の用意はなかった為です。官軍が出陣するまでの期間に臣下を動員しましたが、天皇派3000騎に対して義朝・信頼方は800騎と大差がありました。平清盛の本拠地である六波羅において合戦が行われましたが、特筆する波乱もなく天皇派の勝利に終わります。

 

政治的地位の高まり

平清盛 菊池容斎画、明治時代
平清盛 菊池容斎画、明治時代/wikipediaより引用

 

平治の乱が落ち着いた後、後鳥羽上皇の命によって信西襲撃に加担した有力者等が排除されます。相対的に平家の政治における影響力は上がり、軍馬や宝物の管理、全国の警備など多くの要職を占めるようになります。

加えて合戦の恩賞により、全国各地に配下を置いた平清盛は全国的な影響力を確立します。これを朝廷に認められ、武家として初めて公卿の地位を手にします。

 

太政大臣の座へ

体制を築いた後も平清盛は各方面への友誼に尽力し、二条天皇が崩御した後も昇進を続けました。後白河上皇に対しても友好的に接していましたが、本心ではその言行に不安を抱き、院政を阻む形で策を打ち続けました。時機を得て武士として初の太政大臣の座に就任し、これまでの権限を活かして多くの平家一族を公卿や高官へ任命しました。

しかし太政大臣そのものは実権を持つ摂政に対して名誉的立場に過ぎず、結局約三か月で平清盛は太政大臣の座を辞任しました。無論、築き上げた全国規模の経済力・軍事力による影響は変わらず、仮初めの引退表明として自らの嫡男、重盛に主要な街道の治安権を委譲しました。

 

日宋貿易

平清盛は父・忠盛も着目していた日宋貿易の拡大に着手します。貿易路の整備自体は自らの手によって既に行っていましたが、今度は貿易港の拡大に加え、宋との正式な国交を開いて更なる交易に熱を上げます。忠盛の代から平家は日宋貿易を独占し、大きな収益を上げることによって上皇、天皇からも結果として信用を得ていました。

清盛の代になって任意の拠点確保に着手できる権力・資金力が整った為、貿易拠点である大輪田泊をより近代的に再整備し、京に近い貿易拠点を築きます。より多くの珍しい品々を京へ持ち込み、平清盛は権力者たちからの高い評判と一層の財を得ました。この莫大な資金力が平家の原動力といえます。又、結果としては頓挫していますが、大輪田泊の目前である福原に遷都を行い、平氏の財力と国力を一層充実させる計画も存在しました。

 

後白河法皇との対立

後白河上皇は日宋貿易に協力的であり、宋と国交を開く決定を下すなど平清盛に友好的な態度を取ってきました。法皇となってからもしばらく親交は変わらず、平清盛が法皇の横に並んで東大寺で受戒するなど親交を深めました。この頃において平家の全国的な権力は更に増大し、莫大な財産と500を数える私的領地を保有した最盛期を迎えます。

当時の名言として建春門院の従兄である平時忠による「平氏とあらずんば人にあらず」という言葉があります。しかし、あまりに極まり続ける平清盛の権勢を、後白河法皇の側近達が不愉快に思い始めます。その蟠りは当時の天皇であった高倉天皇の母であり、法皇の妻であった建春門院の逝去によって弾けます。

これによって揺らいだ高倉天皇を支える名目で後白河法皇を担ぐ側近と、院政の復活を良しとしない平家は権力争いに発展します。ここから一連の騒動は「鹿ケ谷の陰謀」と称されます。ここでの後白河法皇は事態収拾に回っており、その過程で捕縛した延暦寺の天台座主、明雲を強硬策に反対する民衆に奪還され、激高します。

その結果、延暦寺を攻め落とせ、という、神による因果応報が信じられていた当時としては異例の命令を下しました。後白河法皇の意志は固く、反対意見は押し切られて攻撃実施の直前まで至ります。このときに、平家打倒の陰謀を察知した、と多田行綱から平清盛に報告が入りました。もともと後白河法皇の命令を疑問視しており、そこへ何らかの背景があると考えていた平清盛は首謀者に出頭を命じます。

応じた藤原西光を尋問した後に斬り、得た情報から藤原俊寛、藤原義仲などもことごとく斬り捨てました。平清盛のこの行動に、反対していた民衆たちも事態を察した上で感謝を述べ、山野へ戻っていきました。

しかしこの説話には藤原西光がたやすく出頭に応じるなど不自然な点も多く、延暦寺攻撃によって己に仏罰を降らそうとしている、と推察した平清盛による偽計であったとの説があります。後に院政派を排除したため、後白河法皇と平家の関係は大きく悪化しました。

 

治承三年の政変

鹿ケ谷の陰謀から二年、院政派の臣下を政治から遠ざける平清盛に後白河法皇は不満を募らせます。病で平重盛が大臣の座を辞すると、後継に平氏反対派の松殿基房の子である師家を指名しました。平清盛が支援していた近衛基通を無視した人事で、これに反発した平清盛は数千騎の大軍を整えて上洛します。圧力を盾に松平師家ならびに基房を解任し、基通を後継に立てます。この強硬人事に後白河法皇は困惑し、謝意を表します。

これにより事態は一旦収束に向かったように見えましたが、結局のところ平清盛は改編を続行し、合わせて39名に上る朝廷内の院政派を相次いで解任します。対象には太政大臣である藤原師長なども含まれました。一連の改編で平家の政治への影響力は上がり、所領地も改編前の17カ国から32カ国に増加しました。

後白河法皇は鳥羽殿に厳重な警護付きで封じられ、事実上の院政停止に追い込まれます。平清盛は残る細かい処遇を平宗盛に任せて拠点・福原へ戻ります。しかし程度を考えずに院政派を排除する宗盛を止めない高倉天皇と近衛基通に対して、後白河法皇の子息である以仁王をはじめとする多くの反対勢力が出現します。

結局は平清盛が再び出奔し、高位の院政派達への処分解除、改めての協力要請など失地回復に努めています。しかし当時1歳という安徳天皇を即位させ、高倉上皇の名を借りて平清盛による政権を開始した為、反感が収まる事はありませんでした。

 

以仁王の反乱

以仁王は治承三年の政変によって領地を没収され、反平氏の第一波として挙兵します。天皇即位の機会を平清盛につぶされた事も大きな原因であり、これに同調する源氏、足利家と共に平家攻撃の計画を立てます。しかし、計画実行前に仏門における平氏と反平氏勢力の衝突が起き、そこから平清盛に攻撃計画が露呈します。

平清盛は早々に約300名を差し向け、以仁王たちを討ち取ります。合戦は防がれましたが、同時期に延暦寺が反乱を起こしており、激突を防ぎたい平清盛は貿易拠点・大輪田泊のある福原への拠点移しを断行します。

 

源頼朝の挙兵

以仁王が鎮圧された頃に伝令が届き、源頼朝が挙兵します。このとき流されていた伊豆を拠点に近隣の豪族及び武士団に決起を促しますが、即座に集められたのは300騎ほどでした。ここで源頼朝は大豪族である三浦氏を頼りに三浦半島へと歩を進めます。

その道中で平氏方の大場景親率いる数千騎の大軍に捕捉され、石橋山に布陣して迎え撃ちます。源頼朝みずから弓を取り奮戦したとされますが、数的不利から大敗を喫します。周囲を囲まれた危機的状況でしたが、石橋山をよく知る土肥実平という武士の献策によって拠点を見出します。後に潜伏中のところに大場景親が迫り、梶原景時に捜索を命じます。

そこで景時と源頼朝は鉢合わせますが、源義朝に仕えていた過去を持つ景時は機転を利かせ、大場景親に虚偽の報告をします。これによって源頼朝は窮地を脱しました。後に三浦氏との合流を果たし、相模国鎌倉に拠を構えます。源頼朝ゆかりの地であり、後における鎌倉幕府であるそこへ2万騎を従えた上総広常を筆頭とした近隣の有力豪族や、葛西清重や畠山重忠などの平氏に不満を持っていた有力者たちが相次いで合流したことにより、関東に一大勢力が形成されます。

 

富士川の戦い

関東での動きは平清盛にも伝わり、源頼朝のこれ以上の台頭を防ぐために平維盛、平忠度を大将として追討軍を組織します。しかし追討軍の編成は遅く、編成してからも呪術的な要素で軍師が抗議している間に時間は過ぎ、関東軍に地盤固めと更なる勢力拡大の時間を許しました。

この間に山梨の甲斐源氏が挙兵し、大場景親と激突するなど新たな戦役も起こっています。追討軍は道中で流れ者をかき集めたことにより、その数は7万を数えましたが、支える兵糧もなしに突貫で揃えた形だけのものでした。駿河に到達した追討軍を甲斐源氏が見出し、迎撃のため源頼朝が鎌倉を発ちます。ここで甲斐源氏が先だって駿河の平氏勢力を掃討し、戦況を源氏に傾けます。
源頼朝が鎌倉を発って約2週間後、両軍は富士川を挟んで布陣します。この時点での兵力は源氏方が約4万騎、平氏方が約2千騎という大差でした。これまでに急速に減少していたことに加え、源氏方の威容を見て逃亡した流れ者が大量に居たこと、駿河での現地勢力との合流が甲斐源氏によって阻止された事などが大差の要因とされます。

両軍はしばらく対峙を続けましたが、唐突に平家方が撤退したことにより、まともな戦闘が行われずに合戦は終結しました。このときの有名な説話として、神経が摩耗していた平氏方が水鳥の飛び立つ音に慄き、散り散りになって逃げだしたというものがあります。しかしこれは脚色であるとの見方が殆どであり、たやすく瓦解した平氏の軍を揶揄するための創作であったと思われます。

 

反乱の拡大

富士川での敗戦をきっかけに平氏の地盤である畿内、九州においても反平氏勢力が決起を始めます。特に近江源氏が蜂起し、園福寺や興福寺といった仏門の僧兵と結託して琵琶湖を封鎖するに至ります。京にせまる勢いであり、この事態に平清盛は福原京を断念し、平安京への遷都を強行します。

これにより体制を整えた平清盛は近江源氏へ軍を派遣し、反乱分子である近江源氏と園服寺を討ち滅ぼし、近江の奪還に成功します。後顧の憂いを断つために残る興福寺へ総攻撃をかけ、討ち滅ぼしたことによって反乱は鎮められます。この過程で東大寺など多くの寺社を焼き払い、特に興福寺鎮圧の過程においては多数の市民を巻き添えにしています。これにより、平清盛に対する悪評はさらに高まることになります。

 

平清盛の最期

反乱勢力の規模は拡大を続け、特に権勢を誇る源頼朝を討伐するために平清盛は東征計画を立てます。平宗盛に軍事権を与えるなど準備を進めていましたが、ある時熱病に倒れます。死期を悟り、後を平宗盛に託して没します。最後まで源頼朝に強い敵意を抱いており、後に和睦を提案した頼朝を平宗盛は頑強に否定したといわれています。その後の平氏は衰退を続け、源頼朝との壇ノ浦の戦いに敗れて歴史から退くこととなります。

 

平清盛の人物像

京都市左京区 若一神社の平清盛像
京都市下京区 若一神社の平清盛像/wikipediaより引用

 

史実で有名な部分を取り上げて見ると、敵対勢力のいる土地を無差別に攻撃する強暴で非情な者との印象が強いです。しかし、日宋貿易における宋人との親睦や後白河上皇を始めとした権力者への礼節を見ると、本来は温厚で頭の回転が速い人物だということが推察できます。天皇家に自分の子息を縁組して権力を固め、当時の秋の空のような政界を立ち回りきったところからも器量と視野の広さがあったことは分かります。

ただ、権勢を増してからは様々な強硬手段に出たのも事実です。晩年においては対立する寺社をまとめて焼き払った事が畿内の有力者からも敵対視され、最期の原因となっています。また、独善的に考えを巡らせて周囲と争いを起こすことが多かったといえます。

治承三年の政変においては委細を伝えず政治経験の浅い宗盛に処分を任せて失敗し、権力拡大の過程においては表面的に友誼を図りながらも着々と政治から遠ざけていることを後白河法皇に気取られ、長く続く対立の原因となっています。後進を育てなかった事も平清盛、ひいては平氏の敗因といえます。実際に平清盛が倒れた後は盛り返すことがかなわず、然程の間もなく源頼朝に倒されています。

 

まとめ

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平清盛は武士として初めて全国的な影響力を持ち、太政大臣となった人物です。その背景には天皇家からの厚い信頼を得るに至った政治力、日宋貿易による豊富な資金力、平治の乱によって一点に集約された軍事力があります。いずれも後世において全国的な権勢を誇った武将達が備えた要素であり、平清盛はその先駆者といえます。

 

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