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歴史

伊達政宗の魅力に迫る!戦国最後の武将「独眼竜」の生涯

 

仙台のヒーロー!伊達政宗ゆかりの地をご紹介

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みなさん、戦国武将と言えば誰を思い出しますか?「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」などでしょうか。そんな、天下統一のメインとなる人物に並んで、人気の戦国武将がいます。三日月の兜に「独眼竜」という異名を持つ人物、東北の覇者、伊達政宗です。
ここでは、まず伊達家ゆかりの地をご紹介し、伊達政宗の魅力に迫りたいと思います。

 

仙台のシンボル!伊達政宗の像がある仙台城跡

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伊達政宗の城として有名なのがこの仙台城です。伊達政宗が建設してから廃藩置県・廃城令が出されるまで、約270年に渡って、伊達家代々の居城としていました。徳川家康に「敵意はない」ということを示すために城のシンボルである天守閣は作られていません(天守閣を乗せる天守台はあります)。
仙台城は宮城県仙台市青葉区にあります。現在は残念ながら、城は消失しており石垣と再建された脇櫓(わきやぐら=武家の屋敷や城郭の要所に設けられた、監視または司令所で、戦闘に必要な武器庫でもあった)のみを残して公園として活用しています。伊達政宗の像は、仙台城跡地の公園にあります。伊達政宗の像の前に立って景色を見渡せば、天下取りの野望に思いをはせた伊達政宗が見ていた景色を楽しむことができるでしょう。

 

伊達政宗のお墓!瑞鳳殿(ずいほうでん) (国宝)

ライオンの画像

瑞鳳殿は、伊達政宗やその家臣が眠る霊廟(れいびょう=先祖の霊を祀る建物のこと。)です。1637年に、伊達家二代目藩主の伊達忠宗(だて ただむね)が作ったとされています。生前、伊達政宗が自分の死後は経ケ峯(仙台市都心部の南西)に葬ることを遺言に残したようです。伊達忠宗が遺言に従い、経ケ峯の東部に、正面が仙台城本丸を向くよう西向きに建設されました。二代目藩主の伊達忠宗を祀った「感仙殿」(かんせんでん)や三代目藩主の伊達綱宗を祀った「善応殿」(ぜんのうでん)が近くにあります。
1931年に瑞鳳殿は国宝に指定されましたが、第二次世界大戦の末期である1945年にアメリカ軍による爆撃を受け(=仙台空襲)、感仙殿と善応殿と共に全焼してしまい、1979年に今の形に再建されました。

 

あの松尾芭蕉も訪問した!瑞巌寺(ずいがんじ)(国宝)

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瑞巌寺は、宮城県宮城郡松島町(日本三景の一つの松島)にある、平安時代に建てられたお寺です。瑞巌寺は、いろいろ名前や宗派が変わってきたお寺で、ひとつ前の「臨済宗円福寺」では戦国時代の終わりに火災によって廃墟同然まで衰退していました。それを江戸時代に入って、仙台藩の初代当主であった伊達政宗が師匠である虎哉 宗乙(こさい そういつ)に勧められて円福寺を復興することを思い立ちます。工事は、1604年(慶長9年)から1609年(慶長14年)の5年間行われました。外観は今に伝わる桃山様式の本堂など国宝に指定されている伽藍(がらん=寺院の建物の総称のこと)は伊達政宗が考えたものです。この工事が完了したのち名前を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」としました。

 

仙台城から縁起の良い場所に立つ!大崎八幡宮(国宝)

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大崎八幡宮は、宮城県仙台市青葉区八幡にある神社です。建設年代は不明ですが、社伝(しゃでん=神社の由来に関する資料のこと)坂上田村麻呂という人が宇佐神社を勧請(かんじょう=神仏の分霊を招き迎えること)し「鎮守府八幡宮」と命名したことが始まりと言われています。現在の名前の「大崎」の由来は、室町時代に入り奥州を管轄していたのが大崎氏であったためです。大崎氏が改易された後、伊達政宗が今の場所に移しました。場所を決める際には仙台城から見て縁起がいいとされる北西(乾)かつ仙台城下町より北西端に位置するように考えられたようです。庶民からは「八幡堂」という名称で親しまれています。

 

 

良くわかる!伊達政宗の歴史

 

伊達政宗誕生~幼少期、知られざる秘話

1567年(永禄10年)、伊達家16代当主の伊達輝宗(だて てるむね)と義姫(よしひめ=伊達輝宗の正室)の嫡子(ちゃくし=跡取りとなる子)として生まれます。幼名は梵天丸(ぼんてんまる)です。1571年(元亀2年)、梵天丸5歳の時、天然痘を患って右目を失明します。これが、後に彼が「独眼竜」と呼ばれる所以となる出来事です。この右目を失ってからの彼は、コンプレックスにより内気で人見知りが激しい性格でした。母親にも姿が醜いと疎まれて、弟の竺丸(じくまる)を可愛がられていました。
6歳のころ、父の伊達輝宗は美濃から虎哉 宗乙(こさい そういつ)を招いて、伊達政宗の師に付けたようです。虎哉 宗乙と伊達政宗は終生、師弟の関係になります。虎哉 宗乙に「お前は父親に似ていて素直すぎるから乱世の覇者になるためには、もっと強情に、もっとへそ曲がりになれ」、「暑い時には寒いといい苦しい時には笑うように」、「人前で寝ないこと(それくらい人を疑ってかかること)」などと諭されました。

 

あまり知られていない、青年期~17代当主になるまで

10歳で元服し、「伊達藤次郎政宗(だてとうじろうまさむね)」という名前になります。「政宗」というのは父の伊達輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主の大膳大夫政宗にあやかって名づけたものです。元服後、12歳の若さで11歳の愛姫(あいひめ)と結婚します。これは、当時としても早婚でした。
その後、家督を誰にするかで抗争があったようです。母親の義姫は可愛がっていた弟の伊達政道(=だて まさみち 幼名は竺丸)に家督を継がせることを考えていたようですが、父の伊達輝宗は早くから伊達政宗に家督を継がせることを考えていたようです。城内は父の伊達輝宗が推薦する伊達政宗派と、母の義姫や家臣が推薦する次男の伊達政道派で派閥が分かれていたようで、次男の伊達政道を支持する人の多くは「(伊達政宗を当主に据えると)片目では世の中の半分しか見えない」と伊達家の将来を不安に思っていたようです。
1584年(天正12年)17歳の時、10月に父の伊達輝宗の隠居にともない、家督騒動を経て、伊達政宗は家督を継ぎ伊達家17代当主となります。「伊達治家記録」によると、10月6日から22日の出来事だそうです。

 

東北の覇者はこの私だ!初陣~東北制覇するまで

 

◎伊達政宗の初陣

伊達政宗の初陣は、1581年(天正9年)4月のこと。伊達政宗15歳の時で、合戦の相手は、隣接する戦国大 名、相馬氏です。

◎同盟崩壊!小浜城&小手森の戦い

17代当主になってからの戦は、1585年(天正13年)の小浜城&小手森攻略戦です。小浜城主の大内定綱  (おおうち さだつな)は二本松城主の畠山義継(はたけやま よしつぐ)、蘆名氏(あしなし=伊達家と長い間、同盟関係にあった)と手を組み、田村氏の支配から逃れようとします。田村氏は、伊達氏(伊達政宗の妻、愛姫は田村氏の子)に支援を要求して、田村軍(支援者=伊達)VS大内軍(支援者=畠山、蘆名)という体制になります。伊達政宗は5月に蘆名領を攻めると、8月には大内領の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめのために城内の者を撫で切り(なでぎり=敵軍の者を女子供関係なしに切り捨てること)します。大内定綱の敗北を間近で見ていた畠山義継は和睦を申し出ます。伊達輝宗(だて てるむね=伊達政宗の父)はこれに応じ5か所の村のみを二本松領として和睦が成立します。

◎父を自らの手で殺害することに!二本松城&人取橋の戦い

1585年(天正13年)、畠山義継は、和睦が結ばれたお礼の際に見送りに来た伊達輝宗を拉致します。当時 外出していた伊達政宗は急遽戻り、鉄砲で父の伊達輝宗ともども皆殺しにしました。父の初七日を済ませると、畠山の城、二本松城を包囲しますが、二本松城救護に来た佐竹氏率いる約3万の兵と人取橋で激突し、数で劣る伊達軍はたちまち勢いを無くし、伊達政宗本人も大けがを負います。1586年(天正14年)、伊達政宗は自ら指揮して、再び二本松城を包囲。二本松氏は、当主である国王丸を立てて必死に抵抗します。そのような中、相馬義胤(そうま よしたね)の仲介で、伊達氏と蘆名氏の間で和睦が成立し、二本松当主の国王丸は二本松城を明け渡し、蘆名氏の傘下に入ることを条件に許されます。伊達政宗は佐竹氏とも和睦を成立させ、一時的に平和を取り戻しました。しかし、蘆名家の相続問題で揉めて、佐竹氏VS伊達氏という構図になりました。

◎唯一負けた戦い!大崎合戦&郡山合戦

1587年(天正15年)、豊臣秀吉は特に関東の北条氏と奥州の伊達氏に対して惣無事令(そうぶじれい=私 戦禁止令)を出すが伊達政宗はこの命令を無視して戦いを続けました。
1588年(天正16年)、大崎氏の内紛に介入して伊達政宗は兵を出し侵略させましたが、黒川氏の離反と大崎側の必死の抵抗を受け、敗北します。同じ年に、郡山合戦が起こり、大崎合戦に乗じて連合軍(蘆名氏、佐竹氏、相馬氏)に伊達領の苗代田城を落とされてしまいます。

◎伊達VS蘆名 伊達政宗が東北地方の覇者になる!摺上原(すりあげはら)の合戦

このころ、反伊達軍の主力である蘆名家は深刻な相続問題で揺れていました。蘆名当主の候補として選ばれたのは、血筋で蘆名家に縁があった、伊達政宗の弟の小次郎と佐竹義重の次男の義広です。この問題はそのまま蘆名家の家臣分裂につながりました。抗争の結果、佐竹義広の方が蘆名氏の新当主に選ばれた、という背景があります。何としても蘆名氏を攻めたい伊達政宗が着目したのは、蘆名家の居城、黒川城を落とすのには欠かせない存在であった、猪苗代城でした。この当主は、猪苗代氏です。猪苗代氏は蘆名の相続問題で親子関係が悪くなっており、隠居した父の猪苗代盛国は子で当主の猪苗代盛胤(いなわしろ もりたね)が黒川城に行っている間に城を乗っ取ってしまいます。猪苗代盛胤は奪還を試みますが、それはできず、金上盛備が仲介に入って、ひとまず親子は和睦しました。
伊達政宗は、その内情を知ると、猪苗代盛国の後妻に近づき、後妻経由に猪苗代盛国に近づいたのです。こうして、伊達政宗は反伊達派の猪苗代国盛を引き入れました。
そのような事情で、蘆名氏の体制は崩れていました。猪苗代親子は敵味方に分かれ、双方の先陣を切ることになり親子対決になります。こうして伊達軍VS蘆名軍は摺上原でぶつかることになりますが風の影響や蘆名軍の金上盛備や猪苗代盛胤の活躍により、伊達軍は苦戦します。しかし蘆名軍の家臣が動かずに傍観していたことと、風向きが変わったことがきっかけに、伊達軍が一気に攻めました。この時蘆名軍で傍観をしていたものは蘆名の相続問題で敗れた小次郎派の人です。これが理由で、蘆名軍は統率が取れなくなり、伊達軍は大勝します。伊達政宗は、23歳の若さで東北の覇者となるのです。摺上原の戦いので大勝しましたが、豊臣秀吉の 惣無事令に反していました。このため、後に豊臣秀吉よりこの戦いで勝ち取った土地は没収されました。

 

苦渋の決断!豊臣秀吉の家臣となった時代

 

◎どちらにつくか?ぎりぎりの選択で豊臣傘下に

1589年(天正17年)、小田原の北条氏が真田領へ侵略したことにより、豊臣秀吉が征伐に乗り出したので す。伊達政宗は父の伊達輝宗の時代から北条氏と同盟関係にあったため、このまま同盟を続けて北条氏に付き、豊臣秀吉と戦うか、同盟を切り北条氏を討つか迷っていました。1590年(天正18年)に、豊臣秀吉の家臣の浅野長政から小田原参陣を催促されて、ぎりぎりまで迷った末、豊臣軍の兵の多さが決め手となり、豊臣軍の傘下に入ることにします。小田原までの経路は、会津を出発して、米沢(よねざわ=山形県)の小国というところを通り、同盟国である上杉景勝の領地である越後国(えちごのくに=新潟県)の信濃から甲斐国(かいのくに=山梨県)を通って小田原に到着しました。豊臣秀吉は、伊達家領地から会津領を没収したものの、本領72万石(石という単位:1石=大人一人分の年間消費量なので、換算すると約72万人が住める土地)を伊達家領地として認めました。この72万石は、おおむね伊達政宗が家督を相続した時の領地になります。伊達政宗が豊臣秀吉の傘下に入ってほどなく、北条氏は豊臣秀吉に降伏し、ここに豊臣秀吉による天下統一が達成されました。

 

◎裏切り者の伊達政宗?葛西、大崎一揆鎮圧戦

1591年(天正19年)、小田原征伐に参陣しなかった葛西氏、大崎氏は豊臣秀吉により改易(かいえき=武士に与えられる罰の一つで、身分を庶民に落とし、屋敷を没収するもの)されてしまいます。葛西氏、大崎氏の旧領地は、新たに木村吉清と子の木村清久という人が統治することになりますが、その統治法が旧葛西氏、大崎氏の家臣の反感を買うことになるのです。そこで一揆が起きます。仕置きを終えて京都に帰る途中であった浅野長吉は、引き返すと、蒲生氏郷(がもう うじさと)と伊達政宗に一揆から木村親子を救出するように命じるのです。蒲生氏郷と伊達政宗は下草城にて会談し、一揆鎮圧にあたることで同意しますが、一揆鎮圧の前日に蒲生軍に伊達政宗が一揆の首謀者であると密告があります(詳しくは後述「人となりが知れるかも!伊達政宗のエピソードや名言をご紹介」項を参照ください)。結果的には、伊達政宗は命令に従い、木村親子を蒲生の領地に引き渡すのですが、信用できない蒲生氏郷は伊達政宗に対して、人質を要求します。それに答えた伊達政宗は、重臣の伊達成実と国分盛重の2人を差し出します。豊臣秀吉の耳にもその件は伝わり、伊達政宗は説明をしに上洛(じょうらく=京都へ向かう事)します。豊臣秀吉に説明し、無実とされた伊達政宗は、改めて一揆鎮圧を命じられ、援軍に豊臣秀次と徳川家康を出したのです。一揆鎮圧後、木村親子は一揆発生の責任を問われて改易されて、領地は伊達政宗のものになります。しかし、豊臣秀吉は伊達政宗を完全に信用していなかったようで、伊達政宗の領地の一部を没収する代わりに荒れ果てていた大崎氏と葛西氏の旧領地を分け与えたのです。

 

◎豊臣秀吉の命で各国の戦国大名が夢の集結!文禄の役

天下統一を達成した豊臣秀吉は、中国の明を制圧することを目指します。その途中にあった朝鮮半島はどうしても通らなくてはいけない道でした。そこで、朝鮮に日本へ降伏することを命じます。しかし、当然断られ、怒った豊臣秀吉は、各国の大名を集結させて2度の朝鮮出兵(①文禄の役、②慶長の役)をします。伊達政宗はこのうちの最初である文禄の役のみに出陣しており、続く慶長の役には出陣していません。
文禄の役は1592年(元禄元年)に始まりました。日本軍は15万人もの兵がいたそうです。朝鮮半島に到着した日本軍は、快進撃を続けます。日本軍の進撃の速さはすさまじく、中国の明では「朝鮮が日本軍を誘導しているのでは?」と疑うほどでした。
日本軍の唯一の弱点は水軍でした。そのため、食料を始めとした物資が届かなく、しかも日本から遠く離れた朝鮮という戦場から武士たちの孤独感を招き、士気が低下します。冬を越す準備もできない、孤独感、はやり病もプラスして、日本軍は追い詰められてしまいました。日本軍は豊臣秀吉に無断で和平交渉を始めます。
大名全員の署名入りで、「日本軍が餓死し始めている。中国も和平に対して熱心である」という手紙を書き、朝鮮から撤退命令がでて引き上げることになるのです。

 

◎伊達政宗またも疑われる!秀次事件

時は少し遡り1591年(天正19年)。豊臣秀吉の跡継ぎ候補が病などで次々と亡くなり、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)が養子として入り、関白の座につきます。しかし、全権を譲ったわけではなく、二頭政治(にとうせいじ=最高権力者が2人いる体制のこと)となり豊臣秀吉は2度の朝鮮出兵(①文禄の役、②慶長の役)をします。そのような中、実子の豊臣秀頼が生まれると、豊臣秀吉は尋常じゃないほど可愛がり、豊臣秀次は謀反(むほん=家臣が君主にそむいて兵を起こすこと)の疑いで高野山に追放のち、切腹を命じられます。妻子側室までもを処刑しました。しかし、豊臣秀吉の子、豊臣秀頼はまだ幼く政治などできない歳であったため、これが豊臣家存続の危機のきっかけとなった1つの事件でした。伊達政宗も豊臣秀次と仲良くしていたことから、謀反の疑いを掛けられましたが、家臣であった徳川家康が豊臣秀吉に必死に無罪を訴えたのが届き、罪を逃れています。

 

天下を取るのは誰だ!徳川家康の家臣となった時代

 

◎勝つのはどっちだ!?東軍(徳川家康)VS 西軍(石田三成(豊臣側))!関ケ原の戦い

豊臣秀吉の死後、跡取りである子の豊臣秀頼はわずか5歳でした。豊臣秀吉は自分の死後、豊臣秀頼の後見人として徳川家康を指名していたようです。徳川家康はこれを機に政権を握りたい。徳川家康は豊臣秀吉の遺言に逆らって、政略結婚や調略(ちょうりゃく=政治的工作のこと)で家臣にしていきます。その思惑にいち早く気づいた石田三成は、徳川家康を非難しました。事実上、政治のトップである石田三成と軍事のトップを任されていた徳川家康との対立体制になります。しかし、石田三成は家臣たちの評判が悪く、反石田三成派の家臣達に暗殺しかけると、なんと徳川家康の屋敷に逃げ込みます。徳川家康が両者を取り持つと、石田三成はこの騒動の責任を取り、無期限の謹慎処分を命じられます。
そのころ、東北の上杉家が謀反の疑いがあると聞き、徳川家康が大軍を引き連れて出兵します。これを好機と見た石田三成は兵を挙げて、徳川家康を上杉家と挟み撃ちにします。徳川家康はそれに気づくと東北の上杉家は伊達政宗等に任せて、石田三成を迎え撃ちます。これが、1600年(慶長5年)に起こった関ケ原の戦いの概要です。結果は皆さんご存知の通り徳川家康率いる東軍が勝利し、江戸幕府が制定されます。

 

◎東軍(伊達政宗(大将:最上義光))VS 西軍(上杉景勝(大将:直江兼続))!東北の関ケ原の戦い

徳川家康は、東北の上杉家討伐を命じる際、伊達政宗に百万石の領土を約束します。これは、豊臣秀吉の時に没収された領土を回復することを約束したものです。伊達政宗はさっそく、上杉討伐に向かいます。目的は徳川家康率いる東軍が美濃国(みののくに=岐阜県)の関ケ原に居る、石田三成率いる西軍と、東北の上杉景勝率いる西軍に挟み撃ちされないようにすると。伊達政宗はこの目的を果たしますが、戦の中、一揆を起こした罰として約束されていた百万石の領地はもらえなくなってしまいます。

 

平和な世の中?江戸時代の伊達政宗について

 

◎江戸時代の始まり!伊達政宗が取った行動とは?

1603年(慶長8年)江戸幕府を開いた徳川家康は、関ケ原の戦いで西軍に付いた家臣を改易し、没収した領地を東軍に付いた家臣に振り分けました。一揆を起こした伊達政宗は、当初の百万石の領地はもらえなかったものの、居城を仙台にする許可をもらい、仙台藩の初代当主となります。徳川幕府からは「松平」の苗字を与えられ、以降「松平陸奥守」と名乗るのです。居城となる仙台城の工事に取り掛かり、この工事に携わった人は述べ100万人といわれています。

 

◎動向が気になる豊臣軍を叩け!江戸幕府(伊達政宗はこちら)VS豊臣軍 大坂の陣

関ケ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任命され、江戸に拠点を置いた徳川家康ですが、まだまだ大阪城にいた豊臣家の影響も強かったようです。豊臣家の権力者は幼い豊臣秀頼の生母である淀殿です。淀殿は、あくまで徳川家康は、豊臣秀頼が成長したら地位を譲ってくれるものだと思っていたようです。しかし、徳川家康は豊臣家に征夷大将軍の地位を譲るつもりはなく、豊臣秀頼に自分の孫の千姫を嫁がせます。そして、征夷大将軍の座を嫡男の徳川秀忠に譲ります。これに、淀殿は怒るのです。徳川秀忠は豊臣秀頼の義父になるため、通常、徳川家にお祝いの言葉を言いにはせ参じるべきでしたが、それをしませんでした。そのような事が重なり、徳川家と豊臣家の関係が悪くなります。この事態を打開するべく、徳川家康と豊臣秀頼は何とか面談することができます。面談は滞りなく行われたようですが、このころから徳川家康は豊臣家を征伐することを考えてたのかもしれません。そのような緊張状態の中、ある事件が起こります。1614年(慶長19年)、京都で方広寺大仏殿という建物が完成しました。この建物は、徳川家康が豊臣秀頼に「亡き父、豊臣秀吉の供養をしては?」とアドバイスしたものです。徳川家康の真意としては、豊臣家の資産を減らすことであったためと言われています。この鐘に刻まれた文字が問題になりました。長い文の中に「国家安康(こっかあんこう)、君臣豊楽(くんしんほうらく)」という文字があったのです。意味は、国家が安じるように、君主である朝廷も臣 である公家や武士たちも共に豊かに楽になれるようにというものです。しかし、徳川家康は、「国家安康は、家康という文字を離して表現している。君臣豊楽は、豊臣が君主とした国家を実現する」と言い放ち、激怒しました。言いがかりに近い行為ですが、これが戦が起きた直接の原因だと言われています。大坂の陣は1614年(慶長19年)に起きた冬の陣、1615年(慶長20年)に起きた夏の陣の2つの合戦のことです。徳川家側の伊達政宗は夏の陣で、豊臣家側の真田幸村とぶつかることになります。

 

◎平和な世の中!領地の開発に力を入れる伊達政宗

落ち着いた世の中になってからの伊達政宗は、仙台藩主として、領地の開発に力を入れていたそうです。特に、後に貞山堀(ていざんぼり)と呼ばれる運河を整備しました。その他として、桃山文化に特徴的な様式を 生み出した数々の建物を建築しています。国宝の大崎八幡宮や瑞巌寺などです。詳しくは前項の「仙台のヒーロー!伊達政宗ゆかりの地をご紹介」をご参照ください。

 

◎時代は海外交流!ヨーロッパ使節団

仙台藩の内政を進める伊達政宗は、海外にも目を向けます。徳川家康の許可を得て、1613年(慶長18年)、伊達政宗はメキシコとの通商の開始、さらにスペインとの同盟関係を結ぶことを目指し、伊達家家臣の支倉常長らを派遣しました。一行は支倉常長以下の日本人と、伊達政宗に使節派遣を提案したフランシスコ会の宣教師ルイス=ソテロなどのスペイン人合わせて180人いたそうです。

 

 

人となりが知れるかも!伊達政宗のエピソードや名言をご紹介

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伊達政宗ってこんな人!伊達政宗の才能・性格をご紹介

 

◎不動明王を戦国武将の手本に

梵天丸が5,6歳のころ。あるお寺で不動明王を見かけた梵天丸は、生まれて初めて見るその恐ろしい表情に、傍にいた僧侶に「なぜ仏なのにこうも顔が怖いのか?」と問います。すると僧侶は「確かに顔は恐ろしく仏とは思えないかもしれません。ですが、不動明王様はれっきとした仏様です。人の世にいる悪人、それに対しては容赦なく懲らしめもします。しかし、武力で制するとはいえ、内面には仏としての慈悲をお持ちなのです。」と答えると、梵天丸は「武力を持って戦うけど、内には慈悲、優しさを持つのか…ならば大名は不動明王をお手本にするべきだな」と言います。

 

◎記憶力に優れていた

伊達政宗は幼少の頃より横たわらずに柱に寄りかかって仮眠することが多かったようで、片時も時間を無駄にすることなく常に手に書物を持っていたようです。伊達政宗は記憶力が良く、他の藩の家臣や商人すらも一目見れば、名前や風貌まで必ず忘れることはなかったほどです。

 

◎詩や歌、書道、能…多才であった伊達政宗

虎哉 宗乙和尚からの教育や、伊達家の家臣で近習(きんしゅう=主君のそば近くに仕えるもの)の片倉景綱に鍛えられた伊達政宗は、詩や歌、能、茶道など多くの才能があったようです。また、文化や教養人としても知られ、常に文芸の場をもうけて文人を招きました。天皇より和歌を褒められたこともあり、晩年は能に熱中して、豊臣秀吉の前で披露したほどの腕前でした。

 

◎料理男子!伊達政宗

伊達政宗は料理にこだわりを見せており、「少しも料理心なきはつたなき心なり」という言葉を残しているほどです。これは、少しも料理の心得がない者は貧しい心の持ち主だという意味で、当時、戦国武将達は自ら料理をすることは少なかった中、伊達政宗は積極的に行っていたようです。
有名どころに「ずんだ餅」や「伊達巻」、「仙台味噌」などがあります。伊達政宗は、戦を左右する兵糧(ひょうろう=兵士のご飯)に興味を持ち、研究していて料理が好きになったとされています。特に「仙台味噌」は兵糧として重宝されており、これは伊達政宗が日本で初めて、味噌倉を建てて、専門家に味噌の生産をさせています。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、他の戦国武将の味噌は腐っていく中、伊達政宗が持っていた味噌は腐らなかったという話があるほどです。伊達政宗が考えた料理は、合戦のことを考えた非常食でも食べられる点がすごいところです。健康に気を付けた料理で、その影響からか伊達政宗は当時30歳が平均寿命という中、60歳まで生きています。

 

◎当時薬だと思われていた煙草を多用

煙草が日本に入ってきたのは1582年(天正10年)のことで、スペインの商人が刻み煙草を「薬」と称して、日本に売ったことが始まりだと言われています。昔から薬好きだった日本人は直ぐに飛びつき全国に広まったようです。伊達政宗もその一人でした。毎朝起きると一服して、昼、就寝前と3回から5回は吸っていました。伊達政宗のお墓からは煙管(きせる)2本と竹製の掃除具が発見されています。

 

生死を掛けたパフォーマンス!豊臣秀吉の家臣のころのエピソード

 

◎小田原征伐に遅い到着、決死のパフォーマンス

豊臣秀吉が小田原の北条氏を討つことを決めると、伊達政宗にも豊臣の家臣になるように、との命が下ります。しかし、北条氏とは父である伊達輝宗の時代から同盟関係にあったのです。迷った伊達政宗は、豊臣秀吉の家臣となる決断をしますが、時すでに遅し。小田原征伐が始まっていました。伊達政宗の遅参に豊臣秀吉は激怒し、伊達政宗を箱根の底倉に閉じ込め、面会すらも許しません。豊臣秀吉は自分の代わりに家臣の者になぜ遅れたかを聞き出すように命令します。家臣の者は驚くことになるのです。なんと、伊達政宗は甲冑の上に白装束(しろしょうぞく=切腹の時に着る服のこと)を着ていました。しかし、同時に豊臣秀吉の供として小 田原にいた茶人の千利休を招いて茶道を教わっていたのです。
家臣から伊達政宗のことを聞いた豊臣秀吉は「死ぬ覚悟はできているのに、風流を学ぶとは・・・なんとも大胆な男だ」と会う決心をします。窮地を迎えた伊達政宗は機転を利かせたパフォーマンスで許されることになります。

 

◎金箔の十字架

1591年(天正19)に起こった葛西・大崎一揆鎮圧戦で、一緒に一揆を鎮圧しに向かっていた蒲生氏郷に「一揆を陰で操る首謀者である」と疑われた伊達政宗。証拠となる手紙も発見されており、当然、豊臣秀吉の怒りを買い説明のために京都へ来るよう命じられます。今度ばかりは絶体絶命。考えた伊達政宗は、上洛する際に白装束を着て行った上になんと、金箔であしらった十字架(十字架=処刑の際に使う道具)を先頭に掲げて豊臣秀吉が待つ京都へ向かいます。京都の人もびっくりです。しかし、普段から派手なパフォーマンスが好きでこのような事態に慣れている豊臣秀吉はこれには驚かず、「一揆を起こしたと認めるわけか。」と問います。これに伊達政宗は「滅相もございません。秀吉様への忠義の気持ちには一点の曇りもありません。」と答えるのです。
一緒に一揆を鎮圧していた蒲生氏郷は、すかさず証拠の手紙を叩きつけ「証拠はある。この手紙の花押(かおう=直筆サインのこと)は間違いなくお前のものだろう。」と問い詰めます。これにも伊達政宗は動じず、「秀吉様、この手紙の花押をよく見てください。私の花押には実はねつ造されないように、針で穴をあけています。この手紙にはその穴はありません。よって、私が書いたものではありません。」と答えるのです。伊達政宗は、その証拠に、と今まで書いた手紙を持ってきていました。それには全て花押に穴が開いていました。それを見た豊臣秀吉と蒲生氏郷があっけにとられていると、伊達政宗は「家臣に真似されるといけないの で、内緒にしておいてくださいね。」と微笑みます。これには豊臣秀吉も微笑み返すしかなく、絶体絶命のピンチはまたも回避されました。

 

◎猿を使ったパフォーマンス

豊臣秀吉は猿を飼っていました。この猿を使って戦国武将たちを驚かせて、その様子を見て楽しんでいたようです。伊達政宗はその情報を早く耳に入れると、秘密裏に豊臣秀吉の猿の教育係に頼んで猿を屋敷に呼びます。そして、伊達政宗は猿が自分の怖さを覚えるまで調教したのです。
伊達政宗が豊臣秀吉のお城に参上する日。何も知らない豊臣秀吉は、いつものように猿を使って伊達政宗を脅かそうとします。しかし、調教されている猿は怯えるばかりです。この状況から全てを悟った豊臣秀吉は「先回りしよったな。」と苦笑することになります。

 

◎煌びやかな出で立ちで行進!その真意とは…

1592年(元禄元年)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、京都で開かれた出陣式のこと。伊達軍が着用していた 戦装束が煌びやかだった、とされています。それを見ていた京都の人が思わず歓声を上げるほどです。しかし、この装束の真の目的は、伊達政宗は朝鮮出兵に賛成ではなかったようです。表立って反対することもできないので、豊臣秀吉の好きそうな派手な恰好をして、伊達軍を京の留守部隊に選んでもらおうというものでした。この時は敢え無く失敗しますが、2回目に行われた朝鮮出兵の際には伊達軍は留守部隊として京都に残されます。

 

大坂の陣!徳川家康の家臣のころのエピソード

 

◎度胸試し!?恐怖心を払う儀式

「名将言行録」という資料によると、大坂冬の陣のとき、伊達政宗は馬に乗って城を見て回っていましたが、その時銃弾が飛んできて、思わず身を引いたのを無念に思い、それからは馬から降りて歩いて敵城のすぐ近くまで行って堀をのぞき込んで、銃弾が飛び交う場所でしばらく立ち止まってから退去した、という逸話があります。

 

◎裏切り行為?味方を討った理由

「名将言行録」によると、大坂夏の陣で伊達政宗は味方の陣にいた軍に後ろから攻撃した、と言われています。この理由を徳川家康に問われたときに、伊達政宗は「入り乱れての大軍では敵味方見分けることができなかった」と答えています。

 

◎死人に口無しとはまさにこのこと?

このエピソードも「名将言行録」より。大坂夏の陣で伊達政宗が徳川家康に「今回の大軍の中に異心を抱く者もおらず、立派な手柄でした」と言うと、徳川家康が「今回のような勝ち戦のときは、敵は皆死んでしまったので、そういった者(=異心を抱く者)がいたかもわからずじまいであろう。全くいなかったとも言えない。」と言い返します。すると伊達政宗は「いかにも。我らのような家臣の中に異心を抱く者もいたでしょう が、勝ち戦の為、死人に口なしで、敵に口がないのでわからないこともあるでしょう」と答えたと言います。

 

 

有名なものからマニアックなものまで!家紋について

伊達政宗の家紋と言えば、「竹に雀」があまりにも有名ですが、その他にもたくさん家紋はあります。戦国武将の中で最も多くの家紋をもっている伊達家です。家紋は勝手に増やすことができず、主への貢献や戦での勝利などで贈られる特別なものでした。家紋が多いということはその一つ一つを紹介していきます。

 

伊達家のトレードマーク!「竹に雀」

伊達家家紋の画像
伊達家/Wikipediaより引用

この家紋は別名「仙台笹」と呼ばれています。伊達政宗の大叔父にあたる「伊達実元」という人が、越後の上杉定実の養子になる時に、婿に対する引き出し物としてこの家紋を譲り受けたという由来があります。養子の話は亡くなりますが、その後もこの家紋は伊達家の定紋(じょうもん=その家の一番使われる家紋のこと)として使われています。

 

源頼より賜った「三つ引き両紋」

三つ引の画像
引両紋/Wikipediaより引用

伊達家の家紋といえば「竹に雀」があまりにも有名ですが、一番長く使われている家紋はこちらの「三つ引き両紋」です。由来は、伊達家初代の伊達朝宗が、藤原討伐の褒美として源頼朝から贈られた家紋になります。

 

豊臣秀吉より賜った「五七桐」&「十六葉菊」

「五七桐」と「十六葉菊」は、天皇家や日本政府が使っていることでも有名な家紋です。五七桐は「桐紋」と呼ばれるものの一種で、モチーフになっている桐の花の数が5-7-5になっているものを指します。菊紋章の次に格式がある紋です。桐は、中国では「鳳凰がとまる神聖な木」と大切にされており、日本にもこの文化が伝わり、天皇家でも使われるようになりました。
桐紋は、その神聖なイメージから特別な家紋として、格式が高い戦国大名が使うことができるそうです。
十六葉菊は、鎌倉時代、後鳥羽上皇がこの上なく菊を好み、自らの紋として使っていました。それが、次の天皇、そのまた次の天皇…と言う形で継承され、「天皇家=十六葉菊紋」と定着したと言われています。
戦国時代では、織田信長や豊臣秀吉が使用していたということで知られています。豊臣秀吉が関白になった際、天皇家から拝領して、家臣にこの家紋を与えています。伊達家もその一人ということです。

 

近衛家から譲り受けた「牡丹紋」

中国では牡丹のことを「百花の王」として、唐(とう=昔の中国)の時代の中央官僚たちがその美しさを競ったとされています。日本にもその伝統が伝わると、聖武天皇の頃、京都で観賞用に持ち込まれるようになります。
もともとは関白である近衛家がこの「牡丹紋」を使っていましたが、伊達家がこれを譲り受けたようです。牡丹紋は、菊、桐、葵についで権力があるとされ、牡丹紋は藤原家の中でも権力のある家のみ使用できます。近衛家もこの一人です。

 

星をイメージして作られた!「九曜紋」

細川忠興が使っていたこの家紋を伊達政宗が使いたいと申し出た、という説があります。日本では星を丸で示していました。九曜紋の「曜」の文字ですが、日本では易学(えきがく=占いの一種)の影響から「星」ではなく「曜」と呼びます。星は一定の軌道上を移動しているので、航海や狩猟の人には自分の居る位置を知るために使用していました。また、農耕をする人にとっては、暦を知る上で重要であったとされていたようです。そもそも九曜はインドのト占(ぼくせん=占いの一種)が起源で、「日・月・火・水・木・金・土・羅(ラゴ)星・計都(ケイト)星」の九つのことを指します。平安時代に流行っていた信仰で、戦国武将は武神として崇拝していました。
伊達政宗の羽織にもたくさんの丸があしらわれているそうです。また、せっかく細川忠興にお願いしてもらった九曜紋を片倉小十郎に渡してしまった話は有名です。

 

伊達家の姫が使っていた事で有名な「雪薄紋」

「雪薄紋(ゆきすすきもん)」は、伊達家特有の家紋です。伊達政宗が初めての戦で小旗に使用していました。姫方の家紋として有名ですが、姫方以外にも伊達家の中で特に功績があった女中にも賜ってきたそうです。雪がたくさん降る東北ならではの家紋となっています。

 

伊達家オリジナルの家紋「蟹牡丹」

「牡丹紋」を伊達家21代目藩主「伊達吉村」が改良したものです。牡丹の葉と花を蟹に見立ててデザインしました。江戸時代ではこの家紋が代表紋として使用されています。

 

 

あの有名な兜!伊達政宗が身に着けていた甲冑をご紹介

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テレビドラマやゲームなどで伊達政宗といえば「三日月のモチーフがついている兜」が有名な戦国武将ですね。その兜は眼帯と並んで伊達政宗のトレードマークとされています。伊達政宗の兜を含めた甲冑(かっちゅう=兜と鎧をセットにしたもの)は、お洒落な人という意味の「伊達者」という言葉が送られたほど、ひときわ豪華で洗礼されたデザインです。

 

伊達政宗と言えば!黒漆五枚胴具足

伊達政宗所用と伝えられる甲冑です。このような五枚胴具足は、伊達政宗が鎌倉雪ノ下の甲冑師明珍を招いて作らせたもので、別名「雪ノ下胴」と呼ばれます。質素ではありますが、戦の場で使いやすいように重厚な造りです。

 

あの徳川秀吉からのプレゼント!銀伊予札白糸威胴丸具足

金箔を貼った小札(こざね=甲冑を形成するための基本的な材料)に白糸で留めた胴丸具足です。左脇には、猩々緋(しょうじょうひ=わずかに黒みを帯びた、あざやかな赤)の羅紗(らしゃ=紡毛を原料として、起毛させた厚地の毛織物のこと)の布が使われています。熊毛とヤクの毛で飾られている兜の前立て(まえたて=兜の装飾物で特に前面についているもの)は、金色の軍配に模様が月と蛇の目があることが特徴です。1590年(天正18年)に豊臣秀吉が奥州へ赴いた際、伊達政宗に拝領したと伝えられます。派手好きで知られる豊臣秀吉らしい甲冑です。

 

上杉謙信の甲冑!家臣から献上された三宝荒神形兜

張懸(はりがけ=草や紙に漆を塗って造形する方法)という技法で三宝荒神の3面の忿怒(ふんぬ)の相を表現しています。三宝荒神(さんぽうこうじん)は、仏教における信仰対象の1つです。1679年(延宝7年)に旧上杉家家臣で伊達家の家臣となっている登坂家から伊達家に贈られたものとされています。

 

 

刀オタク!伊達政宗の刀コレクション

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伊達政宗は、専属の鍛冶屋を傍に置くほどの「刀マニア」だと言われています。戦で使われたもの、誰かから賜ったもの…様々あるのです。今回はそんな中から特に有名な刀を取り上げます。

 

銅の燭台まで切り落とした!燭台切り光忠

燭台切り忠光は、伊達政宗の刀の中で最も有名です。鎌倉時代の長船派(おさふねは)の刀工(とうこう=日本刀を作る職人のこと)光忠が制作した日本刀で、だって政宗から水戸徳川家に贈られた、とされています。最初は刀長67cmの太刀でしたが、磨り上げ(すりあげ=刀の刀身全体を短くすること)され打刀(うちがたな)になりました。
この刀の「燭台切り」という名前には、実は由来となる出来事があります。いくつかの説があり、伊達政宗が近侍(きんじ=傍に仕えてる人)の家臣に罪があり、銅の燭台の陰に隠れた家臣をこの刀で切ったところ、その燭台ごと斬り落としたから、というものが有力です。その他の説としては、鉄の燭台を人と併せて切ったから、というものもあります。

 

猿も一切り!黒ん坊切り景秀

黒ん坊切り景秀は、別名「鞍切景秀(くらきりかげひで)」と呼ばれて、鎌倉時代の中期に長船派の景秀によって作られた屈指の名刀です。刀長は、約73cmの日本刀で、伊達家家臣の石川昭光が献上したとされています。
刀の名前についている「黒ん坊」は猿のことを意味していて、猿に関連した出来事があり、そう呼ばれるようになりました。蔚山城の戦い(うるさんじょうのたたかい=現在の韓国にある土地で、中国の明・朝鮮連合軍と日本軍が戦った)の際、諸大名たちは競って刀の試し切りを行っていたようです。伊達政宗も景秀で試し切りをしたいと思い立ちますが、人を切るわけにもいきません。そこで猿(黒ん坊)を試し切りの相手としたところ、銅を真っ二つにしたという逸話があります。

 

あの徳川家康からのプレゼント!大倶利伽羅広光(おおくりからひろみつ)

日本刀の職人と言えば政宗が有名ですが、この刀は政宗の弟子、広光が作った日本刀です。伊達家は、徳川家康から江戸城の石垣を改修するように命じられました。当時、仙台に居た伊達政宗の代わりに嫡子(ちゃくし=跡取り)の伊達忠宗が石垣の改修工事を1620年に完了し、この刀はその時贈られたものです。
刀の名前の「大倶利伽羅」とは、刀身の指裏(腰に差したときに刀身の体に付く側)に大きな龍の彫り物(=倶利伽羅)がされていることが由来とされています。

 

徳川家と親族が婚姻したときに贈られた!太鼓鐘貞宗(たいこかねさだむね)

この刀も政宗の子(または養子)である貞宗が作ったとされる短刀です。もともとは、堺の太鼓鐘という町人が所有していましたが、江戸時代に徳川家に渡りました。その後、将軍秀忠の養女辰姫と伊達政宗の嫡子である伊達忠宗が結婚する際に伊達家に贈られたものです。

 

日の目を見るのは正月のみ!鎬藤四郎(しのぎとうしろう)

この刀は、鎌倉時代に山城栗田口派の刀工である藤四郎吉光が作ったとされる短刀です。小田原征伐後に、豊臣家が所有し、豊臣秀吉の死後、遺物として伊達政宗に贈られました。伊達政宗は、この刀を深く秘蔵しており、毎年元旦にだけ差すことにしていたほどです。刀の噂を聞いた徳川家康がこれを所望したとき、伊達政宗は「これは豊臣秀吉様の形見だから」と断ります。後に伊達政宗は晩年、嫡子の伊達忠宗に「この刀を徳川家に献上すれば、禁止されている仙台城の増築も許可されるであろう」と予言します。伊達政宗の死後、伊達忠宗は遺言通りに徳川家にこの刀を徳川家に献上したところ、仙台城の増築が許可されました。

 

 

様々なメディアとコラボ!伊達政宗が出てくる作品をご紹介

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じっくり楽しめる!小説

 

◎津本陽 独眼竜政宗 上下巻

時は戦国末期。周りを敵対する戦国大名に囲まれながらも、これらを攻め、勢力を拡大していった伊達政宗。その人生を出生から死去するまでの一生を追っている本です。上巻は、幼少期から豊臣秀吉による小田原征伐に至るまでを絵がおり、下巻は徳川家光に仕えるころまでの話が書いてあります。

◎山岡荘八 伊達政宗 全八巻

NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」の原作です。書籍は全八巻と長いですが、幼少期の伊達政宗が不動明王の 話を聞いてあこがれを描く場面など事細かに書かれています。1から2巻は、少年期から「奥州の覇者」と呼ばれるまでを描いて、3巻以降では秀次事件、関ケ原の戦い、江戸幕府、大坂夏の陣に仕える家臣として活躍した時の出来事などを乗せています。伊達政宗の波乱に満ちた人生を最後の1ページまで気が抜けません。

◎司馬遼太郎 馬上少年過ぐ

この作品は読みやすい短編集になっています。全7巻の短編集で「馬上少年過ぐ」というサブタイトルの物が伊達政宗について書かれています。短編集でありながら、伊達政宗の決断を迫られる人生をしっかり捕らえている作品です。この本を読むと、「独眼竜伊達政宗」の精神に触れられる作品となっています。

◎松本清張 奥州の二人

若き伊達政宗と敵対する蒲生氏郷。2人にとって超えることのできない存在が豊臣秀吉でありました。天下統一を志半ばで諦めた彼らの胸中を描く短編集です。この本は、様々な戦国武将を題材にした10編からなっています。扱われている戦国武将は、安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)、伊藤義祐、細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)などです。「奥州の二人」というタイトルに、伊達政宗と蒲生氏郷が出てきます。

ビギナー向け!子供向け伝記

 

◎浜野卓也 伊達政宗~戦国をかける独眼竜~

厳しい戦国の世の中に生まれて、幼くして片目を失い、独眼竜と呼ばれた伊達政宗。豊臣秀吉、徳川家康と天下人がかわる激動の時代の中、武力と知性でたくましく生き抜いた伊達政宗の一生を紹介しています。伊達政宗の入門書として手軽に読める本です。

◎高枝景水 学習まんが人物館 伊達政宗

伊達政宗の一生がドラマチックに描かれている漫画の作品です。主要エピソードも網羅されていて、人物像を理解する入門書となっています。読めばきっと、奥州の覇者、「独眼竜 伊達政宗」の魅力に迫れる作品です。

◎すぎたとおる 戦国人物伝 伊達政宗

幼いころに病気にかかり、その後遺症の為右目を失った伊達政宗。以降、その醜い姿から母親に愛情を注がれなくなります。母親は弟の小次郎を可愛がるばかりで、幼少期の伊達政宗を大いに苦しめます。徳川幕府の時代になっても「天下」を狙い続け、江戸の民から「伊達者」と呼ばれた伊達政宗。その苦難の人生とひるむことのない生きざまを、この本を通じて感じることができます。

◎田代脩 学研まんがNEW日本の伝記 伊達政宗

伝記まんがシリーズに、大人気の戦国武将、「伊達政宗」が登場しました。豊臣秀吉や徳川家康に屈することなく、武勇と知略で戦国時代を生き抜いた姿を描いています。パノラマ大画面の合戦シーンも必見です。端末には、伊達政宗が生きた時代の背景や、関連する人物などのくわしい資料付きです。

感動すること間違いなし!映画

 

◎独眼竜政宗 東映

戦国時代の末期、依然として小国が乱立し、戦乱に明け暮れる奥州に「独眼竜」の異名で恐れられてついには奥州の覇者となった伊達政宗。その苦悩に満ちた青春期を、激動の時代を背景に壮大なスケールで描く歴史ロマンを感じられる作品です。

音楽を楽しもう!楽曲

 

◎御藩祖をどり

1935年、中山晋平(なかやましんぺい=日本の作曲家で多くの動揺・流行歌・新民謡などを残している)が作曲し、西條八十(さいじょうやそ=日本の詩人、作詞家、仏文学者)が作詞を担当しています。1935年の「政宗公三百年祭」の時に仙台市長の依頼で作られましたが、歌詞にある「玉座」という表現が問題となり、一度きりの演奏で禁止になってしまいました。2017年に復元され、演奏されています。

 

展開が読めない!テレビドラマ

 

◎独眼竜政宗 NHK大河ドラマ

「独眼竜政宗」はNHKが1987年(昭和62年)の1月4日から12月13日に放送した大河ドラマです。NHKの行ったアンケート調査では、最も人気な大河ドラマ部門で、1位になっています。原作は大岡荘八の小説「伊達政宗」。己の才能と知恵によって仙台藩を一代で築いた奥州の戦国武将、伊達政宗の生涯を描いています。

 

歴史の「もしも」が体験できる!ゲーム

 

◎戦国BASARA

戦国BASARAはカプコンから発売されているアクションゲームです。シリーズ累計本数は2017年時点で400 万本に達しています。テレビアニメや舞台、テレビドラマ、映画化されている大人気タイトルです。
タイトルのロゴは伊達家の有名な家紋「竹に雀」が描かれています。主人公は、伊達政宗と真田幸村です。伊達政宗は英語を話せたり、暴走族風の不良を取りまとめるカリスマ的な存在であります。史実と異なる部分が多々ありますが、このゲームを通じて歴史好きな女性が増えたようです。アクションゲームの為か男性にも人気となっています。

◎戦刻ナイトブラッド

戦国ナイトブラッドは、オトメイトとKADOKAWAとマーベラスの三社共同原作によるスマートフォンのアプリです。主に女性向けに発売されているこのゲームは、シミュレーションゲームになっています。スマートフォンが突然光だし、異世界に飛ばされる設定で、伊達政宗を含む戦国武将と恋愛気分を味わえるゲームです。

 

あと10年生まれる時代が違えば天下人になれたかもしれない伊達政宗

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いかがでしたでしょうか。伊達政宗は、最後の戦国武将と呼ばれ、あと生まれる年が10年から20年違えば天下人になれたと言われています。その根拠として、23歳の若さで東北の覇者になったことと、豊臣秀吉や徳川家康に仕えても天下人になる野望を捨てなかったところにあると思います。また、伊達政宗愛用の甲冑や刀の紹介は伊達政宗の人となりを知れる良い機会だったと思います。甲冑や刀自体は知っていても、その由来やエピソードも知るとより魅力が増すことでしょう。伊達政宗は戦国武将として知られていますが、料理好きであったり、自分で手紙を書くなど武将としての顔以外も垣間見れたと思います。歴史から入った人、刀から入った人、甲冑から入った人・・・様々居るとは思いますが、知らない「伊達政宗」を知ってより魅力に気づき、興味が沸き、好きになってもらえると嬉しいです。

 

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