キュリー夫人て何した人?その功績と名言をご紹介!

あなたはキュリー夫人こと、マリ・キュリーという女性の名を耳にしたことがありますか?

彼女は男尊女卑がごく当然にまかり通ってしまっていた時代に女性として、物理学・科学者として、多くの功績を遺しました。

この記事では、キュリー夫人の生涯や功績、名言などをご紹介していきます。

 

キュリー夫人とは?

1903年、最初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した頃/wikipediaより引用

 

キュリー夫人は19世紀を代表する放射能研究の権威でした。彼女は女性であるがゆえに大学で学ぶことが出来ず、夫であるピエールとともに「馬小屋とジャガイモ倉庫を足して2で割ったもの」と例えられるほど粗末な小屋で研究を行いながら、歴史に残る発見をし研究に明け暮れたと言います。

ここでは、キュリー夫人の生涯についてご紹介します。

 

幼少期

キュリー夫人は1867年、帝政ロシアの支配下にあったポーランド立憲王国で教育者である両親のもとに5人兄妹の末っ子として生まれ、マリア・サロメア・スクウォドフスカと名付けられました。幼い頃からたいへん聡明で記憶力が良く、また読書好きで、4歳になった頃には姉の本を朗読することさえ出来たといいます。

 

帝政ロシアによる知識層への監視により、当時禁止されていた講義を密かに父のブワディスカが行っていたことが発覚して家と職を失ってしまうと、投機の失敗や母の病も重なった一家は困窮してしまいます。その後移り住んだ先で小さな寄宿学校を開くも姉ゾフィアがチフスで、その2年後に母ブロニスワバが結核で亡くなり、わずか10歳で深刻な鬱状態に陥ってしまったマリアは母に倣ったカトリックの教えへの信仰を捨て、「ものごとの本質は人には認識することが不可能である」という、不可知論の考え方するようになりました。

 

パリでの苦学と出逢い

1883年にヨーロッパの中等教育を担っていたギムナジウムを優秀な成績で卒業したマリアでしたが、当時女性がさらに進学することはほぼ不可能でした。そのためワルシャワやクラクフなどで家庭教師をしていましたが、パリの医師と婚約をし既にそちらへ移住していた姉ブロニスワバからの誘いもあり1891年、パリへの移住を決意します。

当時女性への科学教育の門戸を開いていた数少ない機関の1つ、ソルボンヌ大学(現在のパリ大学)へフランス語風の「マリ」という名で登録をし、物理・化学・数学の講義を受けることが出来るようになりました。

彼女の1日は石造りのアパートの屋根裏部屋を借り、昼に勉強、夕方からは教授の補佐などを行うチューターを務めるというものでした。生活費が足らないため食事もろくに取ることなく、暖房の無い部屋で寒い日には持っている全ての衣類を着込んで勉強に打ち込み、時には倒れてしまい医師の義兄に助けられながらも努力を重ね、1893年には物理学の学士資格を取得するに至ります。

 

学士資格を取得後、フランス工業振興協会からの受託研究をするようになったマリでしたが、受託した研究は大学や職場で行うには手狭であることに困ってしまい、その悩みを知人に話すと研究場所の提供を頼めそうな心当たりを紹介してもらえることになります。

この時紹介された相手がピエール・キュリー。後に夫となるフランス人の天才科学者でした。

 

最期

キュリー夫人となったマリは夫とともに、また彼を亡くした後にも根気よく研究を続け、科学の発展や進歩に大きく寄与しました。

しかし周囲に放射性物質の散らばる実験室で過ごす時間が長く続いた結果、晩年には手の震えや指のひび割れ・体調不良などの症状が出るようになり、1934年に倒れて亡くなってしまいました。放射性物質との関係性は定かではありませんが、死因は再生不良性貧血によるものだったと言われています。



功績

1911年に受賞したノーベル化学賞の感状。/wikipediaより引用

 

キュリー夫人は夫と協力して研究に打ち込み、ポロニウム・ラジウムといった放射性物質の発見・研究をはじめとした多くの功績を打ち立て、歴史にその名を残しました。

ここでは、そんなキュリー夫人の功績についてご紹介します。

 

多くの「史上初」を成し遂げた

キュリー夫人が持つ「史上初」の称号は数多くあります。その理由のほとんどは男尊女卑・女性蔑視が当たり前という時代にありながら不屈の努力で女性に対する差別をいくつも打ち破ってきたからです。その結果彼女はフランスで大学の博士号を取得し、パリ大学の教授となり、ノーベル賞を受賞した最初の女性として歴史に名を残しています。

 

ノーベル賞は今日でも時折「男性受賞者の方が圧倒的に数が多い」と取り沙汰される称号です。

近年ではその傾向も改善へ向かっているもののキュリー夫人の生きた時代はさらに状況は厳しく、キュリー夫人の研究による科学技術の貢献どころか、その名すらノーベル賞選考委員会で挙がることはありませんでした。女性差別が当然の時代であったために除外されていたのです。

結果的に一部の選考委員や夫ピエールの助力もあり功績を公に認められ、夫妻でのノーベル物理学賞の受賞に至りました。

 

さらに8年後にはノーベル化学賞も授与されることとなり、キュリー夫人は「2つの科学分野のノーベル賞受賞者」という称号をも得ることになりました。この快挙は男女を問わず正真正銘の「史上初」のものとして記録されています。

 

移動式のレントゲンを開発

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、キュリー夫妻はそれまでの研究を中断しフランス軍の助けになるべく当時はまだ新しい技術であったレントゲンに着目しました。そして政府に自分を「赤十字放射線部門」の責任者に任命するよう掛け合い、富裕層から寄付を募りレントゲン設備を搭載した車両を開発。これが、移動式のレントゲン機が誕生した瞬間でした。

 

このレントゲン機は「プチ・キュリー」と呼ばれ、キュリー夫人自身もその中の1台に乗り込んで各地の野戦病院を巡り、負傷兵の体内に残った銃弾や散弾を取り除く手術のサポートをしたと言います。

夫妻の活動で数多くの兵士の命が救われたという事実から後にフランス政府は最高の栄誉であるレジオンドヌール勲章の授与を打診しましたが、夫ピエールはそれを辞退しました。その際の「必要性を感じません」という返答がキュリー夫妻の科学者としてのスタンスを物語っています。



研究ノート 

 

キュリー夫人の手書きの研究ノートは今では歴史的資料として扱われていますが、残念ながら安易に手にすることが難しい状態が100年以上を経た現在も続いています。

研究ノートのみならず、自宅や研究室に置いてあった衣服・家具・料理本にいたるまであらゆるものが放射能に汚染されてしまっていたためです。

 

キュリー夫人に関する逸話として、「光を放つ小さな放射性物質のサンプルをベッドサイドに置いて灯りの代わりにしていた」というものがあります。

放射性物質に関する研究を行っていたキュリー夫妻でしたが、その危険性への理解までは進んでおらず自宅にある研究室にはトリウム・ウランといった放射性物質のサンプルが裸のまま置かれていました。キュリー夫人の手記には「研究の楽しみの1つは、夜中に研究室に入ることでした。サンプルの詰まった試験管が淡い妖精の光のように美しく輝いていたのです。」とも記されています。

 

キュリー夫人が亡くなり家の中に残った放射性物質の危険性が明らかになると、家屋全体が政府の監視下に置かれ1991年に自宅と研究室の除染作業が行われるまでは誰も立ち入ることの出来ない場所になりました。

除染後に持ち出されたノートは現在、フランス国立図書館で鉛の箱に入れられ厳重に保管されています。被ばくの危険があるため、免責同意書にサインの上防護服を着て慎重に取り扱わなければなりません。

キュリー夫人が扱っていた放射性物質の半減期は1601年。今後も何世紀にもわたり、彼女の持ち物は放射能を発し続ける危険な状態が続きます。



名言

マリア・スクウォドフスカ=キュリーの署名/wikipediaより引用

 

キュリー夫人は研究によって成し遂げてきた功績だけではなく、多くの名言を残した人物としても知られています。

ここでは、その一部をご紹介します。

 

 Scientist’s laboratory life is strife to the shole creation.

 (科学者の研究室での生活は、万物に対する闘争です。)

 

 Great discovery doesn’t show from the brain of the scientist by the perfect form suddenly.

 The fruit born from storage of an enormous study.

 (偉大な発見は、突然に完全な姿で科学者の頭脳から現れるわけではありません。

  膨大な研究の積み重ねから生まれる果実なのです。)

 

 This invention can be used for sick treatment.

 I can’t do to take sick person’s unfair advantage.

 (この発明は病気の治療に使えるものですよ。病人の足元を見るなんて私には出来ません。)

 

 I’m human one who thinks great beauty exists in science.

 The one as the scientist in the laboratory isn’t an ordinary engineer.

 That’s also one child who pauses there with the natural phenomenon at the front like the child impressed with a fairy tale.

(私は科学には偉大な美が存在すると思っている人間の一人です。

 研究室にいる科学者というのは、ただの技術者ではありません。

 おとぎ話に感動する子供のように、自然現象を前にそこにたたずむ一人の子供でもあるのです。)

 

 There is no socias reform without personal improvement.

 Though each opens a life, it has to be useful for society at the same time.

 The thing people help and this are human common obligation.

 (個人の改善なくして社会の改革はありません。

  おのおのが人生を切り開きながらも、同時に社会の役に立っていなければなりません。

  人々の力になること、これは人類の共通の義務なのです。)

 

まとめ

ワルシャワのラジウム研究所前に立てられたマリの像。1935年/wikipediaより引用

 

キュリー夫人は女性に対する差別を自身の努力と周囲の人々の協力によってことごとく打ち破り、報酬や栄誉には目もくれずに最期まで研究への道を邁進しました。科学技術の発展への貢献のみならず、性別による様々な困難や束縛にとらわれずに社会へ多大な影響を与え続けた彼女の功績は今なお語り継がれ尊敬されています。

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