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歴史

アーサー王は実在した!?王と聖剣の伝説に迫る!

「アーサー王」の名を聞いたことはありますか?伝説上では優れた指導者であったと描かれ、今なお知名度の高い人物です。現代文化におけるアーサー王の影響は伝説上の彼の業績を超えるものです。現代でも、伝説で描かれた物品や場所などは実際に残っています。

このようなアーサー王伝説とはどういうものなのか、いつ頃広まったのか、現代への影響などに迫ります。

伝説のアーサー王とは

アーサー王とは「騎士道物語」に登場する人物であり、前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の民族の王です。物語中で、アーサー王は6世紀初頭にブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を防ぎ、後にローマ皇帝を倒して全ヨーロッパの王となります。

実在していたと既述する文献もあるようですが、事実は分かっていません。「アーサーは王でなく一介の騎士に過ぎなかった」、「アーサーはローマ人だった」、「ローマ帝国の一つの軍人基地がキャメロット城だった」などと様々な説があるようです。

アーサー王伝説は原典となる作品が存在せず、作品によって登場人物や出来事、テーマが大きく異なります。多くは彼の誕生から亡くなるまでの活躍記ですが、恋愛物として捉えた物語もあります。

現在、彼の物語で一般的に広まっているものとして有力な説は、中世後期にトマス・マロリーがまとめたアーサー王の騎士道物語群というものです。

アーサー王伝説

アーサー王などの英雄伝説の多くはケルトに由来する、というのが有力な説でした。しかし、近年ではオセット人のナルト叙事詩と共通の起源を持つ、という説が注目されています。アーサー王の死とナルト叙事詩の英雄パトラズの死に顕著な類似性があるためという理由です。

以下では、トマス・マロリーがまとめたというアーサー王の物語をベースとして、「アーサー王伝説」をご紹介します。

アーサーの誕生

ブリタニアの国王であるユーサー・ペンドラゴン王が敵国の王妃・イグレインに恋をしました。二人の間に産まれた子供がアーサーです。ユーサーにとって初の男子だったため、アーサーはユーサーの後継者でした。ある時、魔術師マーリンが予知をします。ユーサーの死後にブリタニアで後継者争いが起こるというものです。そこで、マーリンはユーサーを説き伏せ、アーサーの素性を隠した上でエクター卿にアーサーを預けるように動きます。ユーサーが死ぬと、マーリンが予知した通りに後継者争いが起きます。マーリンは幼いアーサーを後継者争いから護りました。

カリバーンと聖剣エクスカリバー

後継者争いを予見していたマーリンはユーサーが死ぬ前に石の台座に剣を刺し、
「この剣を引き抜いた者が、ブリタニアの王となるだろう」
と記します。後継者争いの対立を穏便に留めようとしたためです。この剣の名をカリバーンと言います。

カリバーンを引き抜き王になろうと、多くの騎士が挑戦するも引き抜くことができません。そうした中で見事に引き抜いたのがアーサーでした。結果、アーサーは台座に書かれたとおりにブリタニアの正当な王として迎え入れられ、「アーサー王」が誕生するのです。

後の円卓の騎士の一人であるペリノア王との戦いで、アーサーは王の証である剣・カリバーンを折られてしまいます。それを憂いたマーリンはアーサーをアヴァロンに連れていきます。アーサーはアヴァロンで「湖の乙女ヴィヴィアン」という魔女から聖剣エクスカリバーを授かります。エクスカリバーの鞘は身に着けていると傷を受けない魔法の鞘であり、その後のアーサーの功績に大きく貢献します。

円卓の騎士

アーサーはグィネヴィアという妃を迎えます。このグィネヴィアが嫁入り道具として持参したのが「円卓」です。この円卓は臣下同士の争いを防ぐ目的で使われたもので、円形故に上座下座が無く、座るものが全員対等な立場であることを象徴するものでした。

この円卓にはおよそ12名の騎士が名を連ねました。席数は13席あり、その由来は「イエス・キリストと12人の使徒」であるという説が有力です。当初、円卓にはアーサーと11名の騎士たちが13番目の席を避けて座りました。この席はキリストを裏切ったユダの席であったため、マーリンにより呪いが掛けられていました。アーサーも騎士たちも席に座ることで自分が呪われるのを恐れ、13番目の席に座ろうとしませんでした。そうした中、ランスロットの息子であるガラハッドが呪いを恐れず13番目の席に座り、呪いに打ち勝って12番目の騎士となります。

なお、円卓に座ることができたのはマーリンの魔法により素質が認められた者だけであった、という説もあります。

聖杯探索

聖杯とはイエスが最後の晩餐のときに使用した杯であり、十字架上のイエスの血を受けたものでもあります。聖杯はキリスト教における聖遺物の一つとされています。

聖遺物は病気治癒など奇跡の力を持つと言われるため、アーサーも聖杯の獲得に挑みます。アーサー王の円卓の騎士全員が聖杯の探索に向かい、そのうちガラハッドを含む3人が聖杯を発見しました。その後ガラハッドは聖杯を奉じて聖地へ至り、天に召されることとなります。ガラハッドの父ランスロットは聖杯城に至りましたが、グィネヴィアとの不義が原因で、聖杯に触れることができません。「聖杯」は聖なるものであるため、扱う者も聖人でなければならないのでしょう。

アーサー王の最期

円卓の騎士の内の一人であるランスロットはアーサーからも厚い信頼を置かれており、騎士の鑑のような存在でした。しかし、彼は王の妃・グィネヴィアとの恋という不義を侵します。モルドレッドという別の円卓の騎士が、アーサーにランスロットの不義を告げ口したことをきっかけに、抗争へと発展します。ランスロットは数名の騎士を殺害し、フランスへ逃亡します。アーサーは彼を追い、討伐のためにフランスへ赴きます。

しかし、ここで問題が起きます。告げ口したモルドレッドがアーサーの不在の合間に謀反を企み、ブリタニアの王位を継いでしまいます。アーサーは急いで引き返し王位を戻すように伝えましたが、モルドレッドは拒否します。その結果、カムランの戦いでアーサーはモルドレッドを討伐したものの、アーサー自身も深い傷を負ってしまいます。このときには、聖剣エクスカリバーはモルガンという魔女に盗み出されていたため、アーサーの不死の力はなくなっていました。

アーサーは心と体に深い傷を負い、妖精の国で傷を癒すべくアヴァロンへ向かいます。そして湖の乙女・ヴィヴィアンらと共に小舟に乗って去っていってしまいます。ランスロットはアーサーの危機を知って馳せ参じますが、時はすでに遅く、ランスロットはアーサーがアヴァロンへ去ったことを知ると、悲しみに打ちひしがれて死んでしまいます。

その後、ブリタニアはコンスタンティンという人物が王に選ばれ、王国は平穏に統治されていきました。

アーサー王伝説の起源

古代ブリタニアにはケルト人が住んでおり、5世紀末にサクソン人を退けています。アーサー王の伝説は、そうしたケルト人の中で語り継がれてきました。ケルト人の直系の子孫であるウェールズ人が「マビノギオン」という資料を残しており、騎士道ロマンスが語られる以前の古い状態のアーサー王伝説を垣間見ることができます。

この項では彼の生涯がまとまった形で見られるようになった1136年頃の「ブリタニア列王史」や「ロマンス」についてご紹介します。

ジェフリー・オブ・モンマスの「ブリタニア列王史」

ブリタニア列王史とはウェールズ人のジェフリー・オブ・モンマスが書いた書です。内容には非現実的な部分が多く、現在伝説として扱われるアーサー王のイメージはこのブリタニア列王史から始まったと考えられます。これ以後、詩人ウァースの「ブリュ物語」(1155年)、ブルターニュのブルトン人などを経由して、アーサー王伝説は西ヨーロッパに広がっていきます。

騎士道が道徳的規範であった中世後半において、アーサー王伝説は「ブルターニュもの」と呼ばれ、シャルルマーニュを主人公とした「フランスもの」やアレクサンドロス大王を主人公とした「ローマもの」と並び、騎士道文学の発展に寄与し、フランスを中心に各地で異本やロマンスが作られるようになります。

ロマンス(騎士道物語)におけるアーサー王

ロマンスとは中世ヨーロッパで発展したジャンルの一つで、騎士道をテーマにした物語です。騎士の武勲や恋愛を取り上げるものであり、恋愛小説を意味する「ロマンス」の起源となります。11世紀頃からフランスを中心に発達し、吟遊詩人により歌われた武勲詩が発展して生まれました。

アーサー王の伝説におけるロマンスにおいて、アーサーは主役でなく別の登場人物にスポットライトが当たります。その対象は主に円卓の騎士であり、不義の恋をしたランスロットや恋の相手であるグィネヴィア、その他にもパーシヴァルやガラハッド、トリスタンやイゾルデなど、多岐に渡ります。ロマンスの中でのアーサーはロマンスを成立させるための登場人物の一人に過ぎません。

物語の衰退~復活~現在

アーサー王伝説の人気は時代の移り変わりにつれて乱高下しています。この項では中世・19世紀・そして現代におけるアーサー王伝説への関心の度合いについて紹介します。

中世

トマス・マロリーの騎士道物語が人気を得る一方、ジェフリー・オブ・モンマスの時代から伝わるアーサー王伝説に対して、その正当性を疑う批判が増え始めました。いわゆる「ブルターニュもの」自体の信頼性が揺らいでいた時代です。中世の学者ポリドロはアーサー王が大帝国を支配したという従来の伝記を
「イングランドやウェールズの研究家による虚言である」
と言っています。

中世が終わりルネサンスが到来すると、アーサー王の伝説は下火になり、1634年を最後にマロリーの騎士道物語の印刷もされなくなりました。

19世紀

19世紀に入ると、ロマン主義や中世主義、ゴシックリバイバルの注目が高まり、アーサー王伝説やそのロマンスが再び人気となります。紳士たちの行動規範がアーサー王のロマンスで描かれた騎士道精神に乗っ取ったものとなりました。

1816年には、中世で興味を持たれなくなったマロリーの騎士道物語も再販されます。詩人達の特別な関心により、再びアーサー王の伝説は広まっていきます。詩人たちの語るアーサーは理想の男性像の象徴でした。特に、アルフレッド・テニスンの「国王牧歌」が大流行します。すぐに国王牧歌を真似た作品が作られ、結果アーサー王伝説も、マロリーの騎士道物語共々再び有名になりました。

現代

20世紀後半に入ってもアーサー王の人気は上がり続け、ジマー・ブラッドリーの「アヴァロンの霧」や、ホワイトの「永遠の王」などの小説や漫画が書かれました。

「国王牧歌」では、アーサー王のロマンスがその時代に合ったものに変更されていましたが、現代の作品も同様に内容の変更が行われています。例えば、ブラッドリーはフェミニズム的な要素を加えたアーサー王の物語を作り、アメリカの作家は民主主義や平等などを謳うアーサーの物語に作り変えています。ホワイトの「永遠の王」は舞台にもなっていますが、これはディズニーのアニメ映画「王様の剣」の原作でもあります。

第二次世界大戦頃になると、ロマンスを抜きにしたアーサー王を描こうとする試みが生まれます。ゲルマン人に対抗する彼のイメージが大戦時のイギリス人の共感を得たのです。

1970年代に入ると、アーサー王のテレビシリーズや映画が生まれます。2010年にはディズニー映画「アヴァロン 千年の恋」として、彼らの活躍を現代にリライトしたストーリーが上映されています。

模範としてのアーサー像

騎士道のあらゆる理念を体現する9人の英雄のことを、中世では「九偉人」と称しており、アーサーはその一人に数えられています。九偉人としての人物像が当時の作品によって広まり、さらに画家や彫刻家によって題材にされてきました。

アーサーは現代でも模範的な指導者として知られています。1930年頃に、彼のキリスト教的思想と騎士道の理念推進を目的に、イギリスで「円卓の騎士友情騎士団」が編成されています。アメリカでも、子供が「アーサー王の騎士」という団体に参加しており、アーサーを心身の模範とすることが推進されています。

日本のサブカルチャー

明治時代に、夏目漱石がアーサー王を扱った文学として短編「薤露行(かいろこう)」を書いていますが、当時の日本で、それ以外にアーサー王を扱った本格的な作品はありません。1942年に、アメリカの作家・ブルフィンチのアーサー王を描いた作品を野上弥生子が翻訳し、アーサー王伝説が日本にも知られることになります。

1979年に、アーサー王を題材にした中世ファンタジーのテレビアニメ「円卓の騎士物語 燃えろアーサー」が放映されます。1980年以降は、様々な漫画やアニメ・ゲーム・ライトノベルなどのサブカルチャーで題材となり、若者文化に浸透し始めます。アーサー王伝説に登場する聖剣エクスカリバーや聖杯、円卓の騎士などのキーワードは今でも様々なファンタジー作品でよく使われています。

まとめ

アーサー王伝説のロマンスが恋愛ものとしての「ロマンス」の語源となっていることは意外と知られていません。アーサー王伝説のロマンスをきっかけに、騎士たちのロマンスを描いた作品が多数書かれています。恋というものは、いつの時代でも人を惹きつける題材なのでしょう。

アーサー王が伝説上の存在であったのか、あるいは実在したのかは今なお不確かですただ、今日まで語り継がれる彼の姿が、中世から現代に至るまで影響を与え続けるほどに崇高なものであったのは間違いないでしょう。

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