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歴史

ヘレン・ケラーとはどんな人?三重苦を克服したその生活や名言とは?

ヘレン・ケラーは三重苦の人物として有名ですが、盲人のための社会貢献をしていたことでも有名です。幼い頃は障害によって教育を受けられず言葉という概念も知りませんでした。家庭教師にアンサリバンが来てから物に名前があることを知り、言葉を覚えていきます。その後アンサリバンのおかげで勉学に励むことができ、盲ろう者としては難しいとされていた大学入学を果たします。また、大学を優秀な成績で卒業したことはあまり知られていません。彼女は三重苦をどのように乗り越えていったのか?詳しく見ていきましょう。

 

ヘレン・ケラーとは

ヘレン・ケラーとは、視力・聴力・発声の全てが効かなくなった「三重苦」の人物です。しかし、教育によって発声についてはある程度回復し、「盲ろう者」として言われていることもあります。大人になってからは、社会福祉活動家として、世界各地を訪ね、障害者の教育や福祉の発展に尽力しました。

1歳7ヵ月で視力と聴力を失う

彼女は1歳7ヵ月の時に、原因の分からない高熱と下痢が数日間続き、一命はかろうじてとりとめたものの、視力と聴力はこの時に失われてしまいます。
彼女の父は、南北戦争時に陸軍大尉だった裕福な地主のアーサー・ケラーです。「ノース・アラバミアン」という新聞のオーナー編集長をしていました。母はケイトという名前で、1880年6月に二人の間に生まれた最初の子供がヘレンです。生まれて6ヵ月目には早くも片言ながら「こんにちは」と喋り、1歳の誕生日にはヨチヨチ歩くほどの成長の早い子供でした。しかし、その後の高熱で三重苦となり、光と音のある世界から完全に隔離されてしまいます。彼女の記憶に残る言葉といえば、水を意味する「ウォー・ウォー」のたった一言でした。

家庭教師アンサリバンとの出会い

アンサリバンとは、ヘレンの家庭教師で、彼女にとって半身と呼ばれるほどの唯一無二の存在です。
当時の風潮では、障害者は教育を受けても仕方がないと言われ、障害者教育がない時代でした。完全に闇の中にいる彼女ですが、成長するにつれて知性の片鱗を見せていました。父親を表すために眼鏡をかける真似をしたり、母親を示すために頭の後ろで髪を丸く結う真似をしたり、身振りによる「言葉」を5歳までに60個ほど身に着けたそうです。このことから、両親は彼女を立派に教育していくことは可能だという確信を持ちます。
父はその後も娘の視力や聴力を治そうと、各方面の名医の診察を受けます。しかし、回復は到底不可能であろうという返答ばかりでした。そんな中、電話の発明者で障害者の教育に尽くしていたグラハム・ベル氏を訪れたとき、パーキンス盲学校の校長アナグノス氏を紹介されます。アナグノス氏を信頼したヘレンの両親は、アナグノス氏にヘレンの家庭教師の斡旋を依頼します。そこで推薦されたのが、同校を優秀な成績で卒業したアンサリバンでした。このアンサリバンこそ、その後の彼女を支え、献身的努力を続け、聖女と言わしめるまでに彼女を育てた「偉大なる教師」なのです。

物に名前があることを知る

ヘレンは物に名前があることを知ることで、彼女の世界は徐々に広がりを持ちます。
アンサリバンが彼女の元にやってきた当初、彼女は獣のようだったといいます。ちょっと気に入らないことがあるとすぐ癇癪を起こす、食べ物は手掴み、髪はぼさぼさという具合です。足をばたつかせたり、人を叩いたり、日常的に癇癪を起こしました。
そこで、アンは、聴覚障害者に教える指文字で単語を綴ることから教えました。彼女は、最初勉強だと考えずに、遊びだと思い、楽しそうに繰り返し単語を綴ったそうです。彼女が手掴みで食べようとした時には手を叩きスプーンを使うことを教えます。アンは彼女に躾を施し、従順になることや、我慢をすることを教育しました。
アンはある日、彼女の手を井戸のポンプへ持っていき、水を出します。冷たい水が彼女の手を流れた瞬間に、アンは彼女の手にwaterと素早く何度も書きました。彼女の脳裏には、赤ちゃんの頃に水を「ウォーウォー」と言っていたことが蘇り、この時に物には名前があることを再発見するのです。
その後、元々好奇心が強い彼女は、新しいものに触れると「これは何?」と聞くようになりました。

女性版ハーバード大学へ入学する

ヘレンは天賦の才を発揮させ、米国の女子名門であるラドクリフ大学(現ハーバード)へ入学します。ラドクリフ大学とは、マサチューセッツ州にある私立の女子大で、ハーバード大学の教員が設立しました。現在では完全にハーバード大学の中に組み込まれており、大学のラドクリフキャンパスとして機能しています。当時は、教員やカリキュラムは共有されるものの、大学としては学生数2400名で独立していました。ヘレン・ケラーの資料も多数収蔵されており、記念した公園も存在します。
彼女は、このラドクリフ大学を優秀な成績で卒業します。彼女は自分に与えられた使命が障害者の救済であると認識します。

盲人のために社会貢献する

視力と聴力のないヘレンは、ラドクリフ大学卒業後は盲人のための社会貢献に精を出しました。
「盲人の生活の大変なこと」や「失明を避けるには」などのさまざまな原稿を書き、収入を得ました。マサチューセッツ州が盲人教育委員会を設立すると、26歳の彼女は盲人の代表として委員に抜擢されます。しかし、この仕事は彼女には厳しかったようで、2年で辞任します。その後彼女は社会党に参加します。若年労働や死刑制度へ反対の声を挙げ、デモ行進にも加わりました。
映画やショーへ出演したのもこの頃です。ヒットはしませんでしたが、彼女が語るときは大盛況だったそうです。1921年にアメリカ盲人看護協会が設立されると、協会は彼女を募金活動の広告塔として起用します。さまざまな著名人や知り合いが気前よく募金に応じてくれました。例えば、自動車王のヘンリー・フォード、石油王のジョン・ロックフェラーが募金しています。募金の額は100万ドルを超えていました。

3度の来日

ヘレン・ケラーは、日本に3回訪れています。1937年と1948年、1955年です。
日本の岩橋武夫が彼女に訪日の嘆願書を何度も送っていました。70歳で亡くなったアンサリバンが、生前彼女に日本に行ってみると良いと語っていたこともあり、彼女は訪日を決めました。最初の来日で、日本はヘレン・ケラーブームが巻き起こり社会現象となります。彼女はアンサリバンの追悼のために厳島神社を訪れました。厳島神社の石灯篭に火を灯せたことに彼女は感動しました。1948年の来日の際は、特に歓迎を受け、全国各地で講演してまわり、身体障害者福祉法制定の礎となりました。東京ヘレン・ケラー協会も講演時の募金で創設され、ヘレンは協会の名誉総裁となります。1955年の来日では、ヘレン・ケラー学院の講堂で講演しました。

ヘレン・ケラーの名言とは

ヘレン・ケラーは視力と聴力がありませんでしたが、決して自分を卑下しませんでした。名言からそれを読み取ることができます。名言を意味付きでご紹介します。

「盲目よりも悪いたった一つのことは、視力があってもビジョンがないこと」
目が見えても、未来への展望なくなんとなく生きている人は盲目より悪いという意味です。

「幸福のドアが閉まるとき、別のドアが開く。でも私達は、閉まったドアを長いこと見つめて開いたドアを見ないことがよくある」
ヘレン・ケラーが書いた本にある有名な言葉です。人は幸福だったときの思い出に浸りやすく、過去を引きずるものだ、という意味です。

「世界一で最高の美しいものたちは、見ることも触れることもできない。しかし、心で感じることはできる」
美しいものの中で最高のものは、物質ではないということです。心が感じる美しさそのものが世界一美しいと諭しています。

ヘレン・ケラー財団とは

ヘレン・ケラー財団とは、社会事業家であるヘレンが二度目の来日をしたときに設立された、障害者支援事業を行っている社会福祉法人です。1950年に財団法人西日本ヘレン・ケラー財団として設立され、1952年に社会福祉法人に組織変更、1966年にヘレン・ケラー財団へと名称を変更しています。
ヘレン・ケラー財団は、「人間としての尊厳」「自己決定の尊重」「社会の一員としての自覚」「生き甲斐・働き甲斐のもてる生活」を柱として、ニーズに即した支援を心掛けています。地域のネットワークの核として地域福祉の実現に貢献し、絶えず先駆的事業に取り組むことが目標です。職員においても、キャリアアップを図り、働き甲斐のある環境の整備、優秀な人材の育成に努めています。安定的な財務基盤の確立を目指し、収益確保に努力し、計画的且つ効果的な事業運営をしています。

 

まとめ

家庭教師のアンサリバンが水を「water」だと教えたことをきっかけとして言葉の概念を知り、ヘレン・ケラーは三重苦を乗り越えることができました。彼女は勉強に励み大学に入学し、卒業してから社会福祉活動をします。そんな彼女を周囲は「聖女」と呼びました。聖女と呼ばれた彼女はさまざまな国々を訪問し講演を行い、人々を感動させていきました。

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