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歴史

日清戦争を徹底解説!~朝鮮半島をめぐる日本と清国の争いの背景~

日清戦争というと、日本が獲得した遼東半島を清に返還するよう諸国から要求された三国干渉が印象的です。しかし開戦から実際に行われた戦闘については詳しくない方も居るかと思われます。
この記事では日清戦争開戦までの経緯から終戦後の各国の変化までを紹介します。

日清戦争の概要

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年) 日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている。
ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている。/wikipediaより引用

日清戦争は1894年7月25日に端を発する日本国と清国の間における大規模な軍事衝突です。
当初は朝鮮半島における反乱鎮圧のために出兵した2国でしたが、両軍とも到着時には朝鮮の自力で平定されており、2国の軍隊が対面している内に開戦の機運が高まります。半島の管理権をかけて伊、露を交えた交渉を行うも決裂し、日本から仕掛ける形で開戦します。
戦闘は日本側の勝利に終わり、一時は半島を占領しますが仏、独、露による三国干渉により
遼東半島は返還されます。しかし日本が得た名声と金銭は大きく、清国への戦勝は日露戦争への原因となっています。日清戦争における開戦までの経緯や戦闘の経過について詳細に解説します。

 

開戦までにおける日朝関係

日清戦争の背景として、戦争の場となった朝鮮半島の情勢について振り返ります。
当時の朝鮮半島は鎖国路線を取っており、自国内からの外国人宣教師の排斥や米国からの通商要求の否定を行っては軍事的な小競り合いに発展し、その度に勝利していました。この結果に朝鮮半島は自信を持ち、1868年における日本からの王政復古の提案を拒否します。
その後も日朝間の交渉は進展せず、日本は清国との交渉を優先する結論に至ります。清国の李鴻章の融和的態度も伴い、1871年には日清修好条規が締結されます。しかしその後も朝鮮側の
強固な態度は変わらず、1876年には日本が軍事的圧力をかける形で日朝修好条規が調印されました。

 

開戦に至るまでの日清両国の動向

日本と清国は早期に友好条約を締結していましたが、琉球国の帰属については策定されていなかった為に問題となっていました。1871年に難破した日本の漁船が台湾に漂着し、原住民に殺害される宮古島島民遭難事件が起こります。
日本は清国に抗議しますが、清国は台湾の治外法権を理由に関与を否定します。これを受けた日本は1874年に台湾へ軍を派遣しています。日本軍は原住民との小競り合いを経たのちに清国と再交渉を行っており、結果としては清国が日本の派兵は反撃行動であると認める形で終わりました。
しかし、清国への事前通達をせず軍事介入を行った事は日清修好条規への違反であり、この1件について清国は日本への不信感を募らせています。これは後に日清戦争への引き金となります。

 

壬午事変

日本の台湾出兵以降清国は海軍の拡張を進めており、朝鮮に対しても日本への警戒を促していました。実際に軍隊を朝鮮に配置し、外交面においては諸国との友好関係を確立させる等相次いで内政干渉を行います。
この結果朝鮮半島内で政治的内部分裂が発生し、日本の介入を支持する急進派と清の統治を支持する穏健派で抗争が起こります。1882年には日本のから派遣された軍事顧問が反日派に殺害される事件が発生し、これを機に日清両国が事態の平定および責任の追及を目的として出兵します。
この1件は壬午事変と呼称されています。

 

日清戦争開戦

平壌の戦い
平壌の戦い/wikipediaより引用

 

事変を機に日清両国で軍備拡張が進み、朝鮮半島内においても軍事衝突が起こるなど緊張感が高まっていました。そのような状況の中、1894年には同じく朝鮮の情勢に関与していた英国が親日政策の一環として日英通商航海条約を提案します。
その交渉と時を同じくして朝鮮半島内で大規模な農民の反乱、甲午農民戦争が起こります。この内乱に対する日清両国の介入が日清戦争へとつながっていきます。

 

甲午農民戦争から王宮占領まで

1894年に朝鮮半島内で閔氏政権に対する不満が弾け、農民達が武力蜂起します。同年5月には広大な勢力圏を持つに至り、現地の閔氏政権は清国に援軍を要請します。日本側も現地の邦人と大使館の保護を名目に出兵を行い、朝鮮の漢城付近において日清両軍が鉢合わせます。
自国内での軍事衝突を懸念した農民達、および閔氏は反乱の終結と和約の策定を宣言します。これを機に日清双方への兵の引き上げを要請しますが、両国とも拒否しました。
朝鮮への干渉を目的としていた日本は清国へ共同統治を提案しますが、清国は日本の撤兵を譲らなかった為、決裂しました。次いで朝鮮へ清国の引き上げを要求しますが、農民戦争の終結を理由に双方の引き上げを主張したのでこれも失敗に終わります。
状況は停滞しますが、7月16日にかねてからの外交事案であった日英通商航海条約が成立します。これを機に日本は軍事介入の開始を朝鮮に宣言し、漢城へ進軍して王宮を占領します。朝鮮政権を支配下に置いた日本は新国王を制定し、清国の排除声明を発表させます。これによって日清戦争が開始します。

 

緒戦の経過

まず1894年7月25日に豊島沖海戦が起こり、同28日に成歓の戦いが起こります。
豊島沖海戦においては清の兵隊を満載した英国の輸送船を撃沈する事態が起こり、対英関係が一気に悪化します。しかし後の調査で、英国船の利用は李鴻章による計略であったと判明します。
この際に同乗していたイギリス人船長ら全3人を救助していた事や、攻撃前に再三の警告を行っていた事も判明して対英関係においては無事を得ます。
成歓の戦いは日本による比較的大規模な攻城戦となりましたが、清国の士気の低さなどから日本側が大勝し、結果として清国軍に城を放棄させて平壌まで後退させる事に成功しています。

 

平壌の戦い

撤退した清軍が平壌に集結していると情報を得た日本は、早期に平壌への行軍を開始します。行軍は1カ月を必要とするものであり、兵列の乱れなどから一部の兵が停滞するなどの諸問題を経ながらも9月15日には清軍を包囲する形で日本軍が布陣します。
包囲を見た清の葉将軍が撤退を勘案するなど内部分裂が起こりかけましたが、開戦してからは堅固な要塞に籠った清国軍を日本軍が攻略する激戦状態となりました。戦闘においてはガトリング機関砲や重機関銃が多用され、双方に大規模な損害を出しました。
戦闘は凡そ8時間にわたるものであり、清国の左将軍の戦死などもあって清国が白旗を上げる形で戦闘は終結します。この戦いにおける日本軍の死傷者は700名程とされ、清国の死傷者は2000名以上とされます。

 

黄海海戦

平壌の戦いが早期決着したことを受け、増援の準備をしていた清国海軍は動揺します。撤退する陸軍兵を支援する為に艦隊を発進させ、9月16日14時には撤退支援を完了します。
その後も警戒態勢にあった清国艦隊を17日午前に日本の連合艦隊が捕捉し、清国艦隊の単横陣へ連合艦隊の単縦陣が当たる形で戦闘が開始します。各々の艦船の総数は日本12隻に対して清国14隻とされています。結果としては6時間弱で海戦が終結し、日本側の勝利に終わります。
連合艦隊側の艦船は装甲を施していませんでしたが、速力に勝る分被弾が少なく、被弾の際も砲弾が炸裂しなかった等の要因があって4隻中大破、沈没艦はゼロでした。
清国海軍は装甲艦多数でしたが被弾数は連合艦隊側の6倍以上とされ、5隻沈没、6隻中大破、2隻座礁の被害を受けています。このとき日本軍に装甲艦が無かったのは戦略ではなく海軍上層部の資金流用などにより複数の装甲艦を工面する資金的余裕がなかった為とされます。
もっとも、清軍においても資金流用は起こっていて、新型の軍艦を投入できなかった事が敗戦の一因と言われています。この海戦以降は日本が制海権を掌握し、威海衛へ後退した清国海軍を追撃する展開へ移行していきます。

 

日本軍の展開

黄海海戦に勝利した日本軍は短期決戦が可能であると考え、清軍の要衝である旅順の攻略を目的とした追撃軍の編成を開始します。制海権を駆使して大規模な海上輸送を行った日本軍は10月24日に清の領土へ上陸します。
11月6日には旅順まで50㎞の金州城攻略に成功し、11月21日には旅順に到着して攻城戦を開始します。この時の兵力は日本軍1万5千に対し立て籠る清国軍1万3千であり、旅順には堅固な防備がありましたが、清国軍の兵隊は殆どが新兵でした。
結果として開戦から1日経たずに日本軍は旅順を占領します。双方の被害は日本軍死傷者281名に対して清国軍死者4500人で殆ど一方的な状態でした。
この時の現地の民間人を巻き添えにしたとの情報が国際社会へ広まり、日本の外交に大きな揺らぎが生じるなど後顧の問題も発生しています。

 

講和開始までの流れ

旅順での戦勝後、日本軍は朝鮮と清の国境である鴨緑江の九連城へ攻勢を仕掛けます。この時迎え撃つ清国軍は総勢3万人以上でしたが、士気の低さと傷病者の多さなどから九連城を火を放って放棄し、前哨戦のみで勝負が決しました。
この後も清軍の抵抗は起こらず、10月29日にはもう一つの要衝である鳳凰城も戦わずに日本軍が占領します。ここで朝鮮農民軍が再び蜂起してくるといった問題が起こりましたが、国力的に短期終結を望む日本軍は即座に派兵を行って朝鮮軍と共同でこれを鎮圧します。
この傍らで清国から講和の交渉を申し入れられますが、有利な条件での締結を望む日本は威海衛の攻略および交通拠点である海城の攻略作戦を決行します。
このうち威海衛は開戦から半日で大勢が決し、清国軍艦の反撃は魚雷の一斉射などによって鎮圧したことによって早期に清が降伏します。海城についても早期に占領が行われましたが、こちらは清の頑強な反撃によって開戦から2カ月以上、計4回にわたって戦闘が続くことになります。
その一方で日本は台湾の攻略を進め、複数の要衝を占拠するに至ります。この過程で日本軍にも甚大な被害が出ますが、台湾本土での直接決戦を突き付けてから清との講和の席に着いた日本は台湾の割譲を要求します。

 

講和成立から三国干渉まで

清国は台湾本土決戦が起きていないことを理由に拒否しますが、交渉が難航する中で日本側の無法者により清国大使を狙撃する事件が発生します。この不祥事に日本は講和を急ぎ、交渉開始から約1か月半後の4月17日に下関条約を発効します。
下関条約には日本への遼東半島の割譲などが含まれており、アジア情勢の偏りを懸念した露、仏、独が共同して、日本が遼東半島を返還するよう要求します。他国の介入と条約の無効化を懸念した日本は早期に会議を開き遼東半島の返還を決定、表明します。
日本は後に清国と遼東還付条約を締結し、多額の還付金を受け取っています。

 

日清戦争の戦後への影響

下関条約には台湾の移譲も含まれており、日本軍は日清戦争終結後の5月下旬に台湾を平定するため派兵しています。この過程で疫病や現地住民のゲリラ戦に悩まされ、一個師団が半減するなど甚大な被害を受けながらも11月下旬には台湾全土の平定に成功し、日清戦争に端を発する戦闘は終結します。
この日清戦争の結果を受けて、日清両国へ対する国際社会の評価は一変します。戦前において清は文化的、軍事的ともに高く評価されており、戦端を開く事については日本の明治天皇も逡巡したとされます。しかし開戦後は日本が戦勝を重ね、日本国内に好戦的な気風が広がりました。
また、戦勝に伴って獲得した多額の賠償金は軍備拡張やインフラへの投資といった”富国強兵”の推進に使用されました。加えて、この時に形成された英国との金融パイプラインは後の日露戦争において資金調達に多用されることとなります。
一方、大国と評されていた清が日本に敗れたことは諸国に衝撃を与えました。戦後処理においても諸国から多額の借款を行っており、内政的、対外的な危機に陥ります。
立て直しを急いだ結果として清国各地で大規模な革命運動が起こりますが、1900年に起きた義和団運動を発端に清国は欧米諸国に宣戦布告を行います。
結果として欧米諸国に北京を占領される事態を招き、露の満州進出をも誘発することになります。こうして欧米諸国の進出による占領地化が進んだ清国は1912年の辛亥革命によって滅亡を迎えます。

 

<まとめ>日露戦争へ繋がった日清戦争

1895年4月17日に調印された下関条約
1895年4月17日に調印された下関条約/wikipediaより引用

 

日清戦争によって日本は多くの賠償金と欧米諸国に迫る国際的勢力を獲得し、分裂していた議会は戦争に際して一致団結しました。これによって培われた軍事力と大国へ宣戦する機運が日露戦争の開始へ繋がっていきます。
もっとも、戦争によって富と名声を獲得する思想に日本全体が傾倒し、日本の戦勝を大々的に取り上げて清国を貶める報道が主流となるなど多くの問題も発生しています。戦争の起こった背景や各国の視点から見ていくと、また違った見解が得られると思います。

 

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