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歴史

エジソンの生涯~世界に認められた天才発明家の素顔とは~

発明王として、誰もが知っているエジソンですが、実際はどのような人物だったのでしょうか。最も有名な発明として、「白熱電球」があります。しかし、その発明に至るまでのエジソンの人生は、苦労や失敗の連続でした。それでは、エジソンの生涯や、知られざる逸話について見ていきましょう。

エジソンのルーツ

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エジソンが発明王となったルーツは、並外れた好奇心と母の教育にあります。エジソンは、小学校を退学しているので、学歴はありません。しかし、元教師である母ナンシーから個人授業を受け、エジソンの並外れた好奇心は満たされ、成長を遂げました。また、発明に目覚めたきっかけは、自分の仕事を減らすためでした。発明は成功しましたが、仕事を怠ったとされて会社をクビになってしまいました。

エジソンの生い立ち

トーマス・アルバ・エジソンは、1847年2月11日にオハイオ州ミランで製材所経営者である父サミュエル・オグデン・エジソンと元教師である母ナンシー・エリオット・エジソンの間に7人兄弟の末っ子として生まれました。エジソンは幼少期から、自分が抱く疑問や好奇心を追求せずにはいられず、教師を困らせ、終には小学校を退学させられてしまいます。その後、母ナンシーはエジソンに教育を施しました。ナンシーはエジソンの知的好奇心が満たされるまで徹底的に教えました。ナンシーの個人授業は、エジソンが発明王になる基盤を固めていきました。

発明に目覚める

エジソンが発明に目覚めたのは、わずか16歳前後です。その頃、エジソンは電信技士としてアメリカやカナダの各地で働いていました。電信とは、電線を使って長距離間の通信をモールス信号で送る通信手段です。当時は電話も無線もなかったので、電信が通信手段として使われていました。電信技士として働くうちに、エジソンは、夜勤を任されるようになりました。エジソンは寝不足を避けるために、起きていることを電信で証明するための装置を作り出しました。これが、エジソンの最初の発明となりました。この装置をセットしておくだけで、自分が寝ていても通信相手にはわからない仕組みでした。ところが、装置を使っている横でエジソンが寝ているところを上司に見つかってしまい、エジソンはその会社をクビになってしまいました。

エジソンの躍進

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エジソンは、株式相場表示機「ティッカー」を発明し、その特許売却で得た資金から、研究所と工場を設立します。それから、本格的に発明に力を注ぎ、発明品の数々を生み出しました。様々な異名を持ち、名声を得ると同時に、発明品世に出す際には、先に特許を持つ人や、他に発明に成功している人がいたため、円滑に進むことはありませんでした。

発明家となったエジソン

エジソンは、会社をクビになった後も電信技士として働きつづけました。エジソンは電信技士としての収入を注ぎ込んで最新の科学知識を独学で学び続けました。株式市場に関わる会社に勤めていた22歳の時に転機が訪れます。株式相場表示機「ティッカー」の発明に成功したのです。翌年には、「ティッカー」の特許は売却されたのですが、5000ドル程度と考えていたエジソンの予想を大きく上回り、4万ドルという高額で買い取らることになったのです。エジソンは、この売却益を元にして、研究所と工場をニュージャージー州のメロンパークに設立しました。こうして、エジソンは発明家となりました。

様々な異名

エジソンは、「発明王」として有名ですが、異名はそれだけではありません。エジソンは、研究所と工場がある地名にちなんで「メロンパークの魔術師」とも呼ばれていました。また、フランスの映画発明者のリュミエール兄弟と並んで、「映画の王」とも言われています。そして、エジソンは強力な法律顧問団を抱えていて、自らの発明の権利を守るためには訴訟を厭わなかったことから、「訴訟王」という異名まであります。

発明品の数々

1877年、エジソンは炭素式マイク・スピーカーを使用した電話機を発明しました。しかし、ベル電話会社のスタッフが先に特許を取得していたため、この発明は、世間では認められませんでした。次に、エジソンは、蓄音機の発明にとりかかります。そして、エジソンは”用事などを記録しておく事務用品”として蓄音機「フォノグラフ」を発明しました。ところが、これもベル電話会社が改良を施し、改良されたものが好評を博してしまいます。エジソンが脚光を浴びたのは、1879年に発表した、「白熱電球」でした。この発明にも、先に他の成功者がいましたが、エジソンの方が、「白熱電球」の改良と普及に長けていたため、最終的には、エジソンが「白熱電球の発明者」として名声を得ました。その他にも、数々の発明品を発表していますが、発明の競争率は高く、他の研究科が発明したものをエジソンが改良して世に出すことも多くありました。

エジソンの知られざる逸話

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エジソンは、天才ゆえに周りから理解されないことも少なからずありました。しかし、晩年は友人にもめぐまれました。また、発明に情熱を注ぐあまり、犠牲をも厭わない面もありました。

エジソンの友情

エジソンが発明家として活躍した時代に、ちょうど自動車が実用化され始めていました。エジソンも電気自動車の研究を行っていましたが、当時の技術では実用化に適さないと判断し、研究から手を引いています。そんなエジソンに代わり、自動車に生涯を捧げたのが、後にエジソンの無二の親友となったヘンリー・フォードです。フォードは、エジソンより16歳年下でした。フォードは、当時エジソンが作ったエジソン照明会社でエンジニアとして働いていたところ、会社のパーティ会場でエジソンと出会いました。フォードは尊敬するエジソンに自動車に掛けた熱意を熱く語り、エジソンもそれを応援しました。後にフォードは自動車製造会社を設立しました。エジソンは、フォードの起業後も家族ぐるみで付き合い続け、仕事上でも協力し合いました。フォードは、エジソンの自宅の隣に別荘を建て、エジソンの晩年を見送りました。

エジソンの破天荒な性格

エジソンは、実験や研究をするためには、犠牲をも顧みない性格でした。少年時代には、人が空を飛ぶための薬を作ろうとして、ヘリウムガスをヒントにしたものを自作しました。その薬を飲んだ友人は、腹痛をおこし、激しくもがき苦しみ、大騒ぎとなりました。また、エジソンはライバル会社の電力のシステムの危険性を提示するために、象を感電させて公開処刑を行ったこともありました。

発明に生きたエジソン

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発明王と呼ばれたエジソンは、生涯発明に身を捧げました。発明品には、エジソンが発明者か曖昧なものもありますが、訴訟王と呼ばれるだけあって、結果的に名声を手に入れています。エジソンにとっては、自分の心身を捧げた発明品が、世の脚光を浴びることが、何よりの幸せだったかもしれませんね。

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