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歴史

斎藤義龍とは?父・斎藤道三を討ち、美濃の国を獲った男の生き様に迫る

斎藤義龍という戦国武将をご存知でしょうか。彼は名実共に美濃の国の国主となった男です。しかし、美濃の国の国主に至るまでの道のりは決して緩やかなものではありませんでした。

父・斎藤道三に嫌われてしまい、生涯父に認めてもらえなかった義龍の歩みは孤独との闘いでした。自らが出世するために実の兄弟を殺し、最後には父親である道三も討ちます。

かの有名な織田信長さえも恐れさせた美濃の国の戦国武将・斎藤義龍の生涯をとくとご覧ください!

斎藤義龍の父親は現在でも断言できない 

斎藤義龍の母親は当時から深芳野であると断定されており、現代の研究でも同じ見解です。一方で、義龍の父親が斎藤道三とは現在でも断定できていません。戦国武将において自身の出生の起源というのは重要視される事柄のひとつでした。

義龍は、こうした自身の出生の起源をも自らに有利に働くように利用します。見事なまでの策士たる振る舞いは、さすがに一時代を築いた戦国武将たるもので、一読の価値があります。

父親は「美濃のマムシ」斎藤道三

義龍の父親は美濃のマムシとの異名を取った斎藤道三である、というのが有力な説です。道三は、後に織田信長の妻となる濃姫の父でもあったことで有名な戦国武将です。下剋上によりその地位を確固たるものとした道三ですが、実子である義龍の手によって長良川で討たれるとは思わなかったでしょう。

道三は息子である義龍を「耄者(おいぼれ)」と断じ、弟分である孫四郎や喜平次らを溺愛します。これに対し、義龍は道三の政策や立ち居振る舞いに不信感と敵対意識を募らせていきます。道三が義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとし、末弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせたことから、両者の関係は険悪なものになっていきます。

父親は斎藤道三ではなく土岐頼芸という説

父親は道三とする見方がある一方で、義龍は実は土岐頼芸の落胤(らくいん)であるのではないかという噂がありました。義龍の母親である深芳野は、道三の側室になる以前に頼芸の妾をしていた時期があり、道三の側室になる前に頼芸の子ども、すなわち義龍をすでにお腹に宿していたのではないかという見方があるのです。

義龍はその噂を追い風として、一色姓を名乗ることを企てます。一色姓を名乗ることで斎藤姓とは違うということを世間にアピールできました。頼芸の子としてかつての土岐氏家臣たちから支持を受け、長良川の戦いでは17,500もの戦力を集めています。この戦いでの道三軍の兵力が2,500だったことを鑑みると、義龍は頼芸の落胤という噂を上手く逆手に取ったと言えます。また、父である道三殺しの汚名を回避する策略をも見事に成しえたのです。

斎藤義龍は生涯で何度も名を変えた

さて、斎藤義龍はその生涯で何度も名前を変えたことで有名です。幼少期、元服した時、父である道三を討つ事を心に誓った時などその局面局面で義龍は自身の名前を改名しています。名前を変えたタイミングやその名前に込められた意味をご紹介していきます。

豊太郎

享禄2年(1529年)、義龍は斎藤道三の長男として誕生しました。母は側室の深芳野であるとされ、幼名は豊太郎を名乗っています。

新九朗

8歳の天文5年(1536年)までには元服してその名を新九郎と名乗っていたとされています。一時期は尾張国の佐治氏に預けられていたという説もありますが、定かではありません。

利尚

利尚は父の実名である利政から一字取ったもので、美濃守護代であった斎藤氏が通字でもありました。利尚を名乗る期間はそれほど長くなく、ほどなくして改名をします。

范可

范可という名前に改名をした最たる理由は、中国・唐の時代になんらかのやむを得ない事情で父親を殺した人物とされています。そのため、范可という名は「父親殺し」の意味合いが強くあった名前なのです。その名前に改名をした義龍の父親・道三に対する不信感や反旗を翻す決意の強い表れだったのではないでしょうか。

高政

名前を「范可」から「高政」に改名しました。父・道三を討つという悲願を達成した彼にとってすでに范可という名は不要となり、父殺しの意味合いのある名前をこれからも名乗り続けることに対し、世間の目を気にしたということもあったのでしょう。

後に歴史上に残る「長良川の戦い」に至る経緯とは?

斎藤道三との対立関係をより確固たるものとした斎藤義龍は先手を打ちます。道三が山下(麓の井口)の私邸に出向いた隙に義龍は動きました。

叔父の長井道利と画策をして、義龍の弟である喜平次、孫四郎の暗殺計画を企てます。まず、道利を使わせ、

「自分は重病であり、時が過ぎ去るのを待つのみである。会って一言申し上げたいので、入来されたい」

と自分の傍に二人の弟を呼び寄せました。ここで、道利は用意周到な策士ぶりを見せます。喜平次、孫四郎を呼び寄せた間で、道利が刀を置きます。それに倣わせて、二人にも刀を置かせます。対面の席で酒を振る舞い、二人を酔わせてから、寵臣である日根野弘就が隙を見て太刀で二人を殺害しました。

二人の弟の謀殺に成功した義龍は、山下の道三に使者を送り、喜平次、孫四郎謀殺の顛末を伝えます。事態を飲み込んだ道三は慌てふためき、急ぎ兵を集めて城下の町を焼き払い城下から逃走しました。長良川を超え、山県の大桑城にまで逃れた道三でしたが、翌年の春ごろに情勢は緊迫し、ついに両者は決戦を決意して長良川で雌雄を決することとなります。これが後に史実に残ることとなる「長良川の戦い」です。

いよいよ決戦!父・斎藤道三を討つ「長良川の戦い」

弘治元年(1555年)斎藤義龍が30歳の時に父・斎藤道三を討つために挙兵をします。斎藤家の家臣の多くは義龍に加勢したといわれています。義龍側の軍と道三側に付いた軍とでは兵の数に歴然とした差があり、多勢に無勢で道三が討ち取られるのは時間の問題だったようです。およそ7倍にも上る戦力を義龍は有していたされています。また、道三の親戚に当たる、かの有名な織田信長が長良川の戦いの一報を聞き、道三軍への援軍を送るも、間に合わなかったとされています。

軍略家として知られた道三が容易く敗れたのは、道三の「国盗り」、すなわち美濃の国を盗るまでに至る手法が強引だったために、旧土岐氏派の信を得られなかったことが原因でした。事実、ほとんどの旧土岐氏派は義龍軍に味方したとされています。かくして「長良川の戦い」にて父・道三は義龍に討ち取られます。

道三は討ち取られる寸前に、信長へ美濃を譲り渡すとの遺言状を遺します。この遺言状は後に信長が美濃を侵攻する布石となります。また、余談ではありますが、道三は義龍の見事な采配を目の当たりにし、死の淵で「しばらく斎藤家は安泰である」との言葉を遺したとされています。

斎藤道三と同盟関係にあった織田信長と対立へ

長良川での勝利で士気の上がった斎藤義龍軍は、大良口にいた織田信長の陣所にも兵を差し向けます。そのため、両軍は大良の河原で激突します。

義龍軍はあと一歩というところまで信長を追い詰めますが、信長はここで冷静な判断を下します。まず雑人・牛馬を後方に下げると「殿(しんがり{隊の最後尾の意味})は信長が引き受ける」と言い放ち、全ての自軍の兵を川を渡って退かせ、信長は舟一艘で川に残りました。義龍軍の騎馬が川端まで駆けて来ると、信長は当時の最新技術である鉄砲を撃ちました。義龍軍の騎馬武者は鉄砲に苦戦し、渡河を断念します。

こうして義龍軍の追撃を追い払い、信長は退散することができたとされています。

織田信長と不仲である兄弟と目論む

道三と親戚関係にある信長との対立関係を強くした義龍は、信長と仲の悪かった彼の兄弟達に目を付けます。義龍は織田家を瓦解させようと、二人の人物に接近しました。

前者は信長の実の弟である信行という人物です。信行は、道三が討ち取られてまだまもない弘治2年(1556年)に、家督を狙い謀反を起こします。その後も謀反を企てて、義龍と密に連絡を取り合います。しかし、やがて信長に謀反を企てている事実を知られることになり、最終的には処刑されてしまいます。

後者は信長の兄に当たる信広です。彼もまた同じ時期に義龍と連携して謀反を計画していましたが、信長に危険を察知されて未遂に終わってしまいます。

このように、織田の家中では確執があり、義龍にとっては織田家瓦解の足掛かりとなる要素が多分にありました。しかし信長は、兄弟たちの謀反を決して許さず未然に防いでいます。自身にとって危険な事態を無事防いだ所から見るに、信長は極めて危機察知能力に長けていたのでしょう。

歴史上初?火縄銃での信長暗殺を画策

「長良川の戦い」で信長が道三の援軍に駆け付けた時には、すでに道三は討ち取られてしまっていました。その折に、信長は道三の末子である利治らの道三残存軍と合流し撤退を開始しましたが、義龍軍の追撃を受けます。この時、日本史上初とされている火縄銃を使用し、義龍軍は信長を追い詰めますが、信長暗殺までには至りませんでした。

権威を重要視した斎藤義龍

斎藤義龍は織田信長とは違い、「官位」の獲得に力をいれていました。戦国武将として箔の付く権威に執着していた義龍の官位にまつわるエピソードをご紹介していきます。

官位の獲得

弘治4年(1558年)には朝廷から正五位下にあたる「治部大輔」という役職への任官を授与されています。信長が名乗っていた「上総介」の官位は従六位上なので、格としては信長の官位を大きく凌いでいました。「治部大輔」という役職は、清和源氏の血統を引き継いだ由緒正しい人物に授与されるという風習があり、義龍にとって「土岐氏の末裔であるという正統性」を世間に誇示するためには好都合だったとされています。

永禄別伝の乱

永禄4年(1561年)に左京大夫という職へ就任すると、義龍は自分の姓を清和源氏の末裔とされる一色と名乗ることを決意します。改名する際に土岐氏を選ばすに、一色氏を選んだ理由は多くあり、家格や官位の点では一色の姓の方が格式が高かったことや、他の格式高い姓は複雑な事情があり、名乗れなかったことが挙げられます。また、父殺しは戦国時代でも汚名の部類に属すため、義龍が斎藤氏を名乗ることは不都合でした。合わせて、改名による土岐氏の復権も防ぎたかったことや、成り上がり者という誹りを避けたかったことなどの理由も考えられます。

道三を代表に、斎藤家の家系は日蓮宗を信仰していましたが、義龍が清和源氏の末裔の姓に改名したことで、自身の家系の宗教を禅宗へ改宗する必要がありました。それだけではなく、これまで菩提寺として指定していた常在寺は、日蓮宗の宗派のため、新しい寺社を建立する必要が生じました。

しかし、義龍は宗教のデリケートな問題を美濃の僧侶である快川紹喜(かいせん じょうき)に一切相談せず、京都から別伝という僧侶を派遣してしまいます。この事案が火種となり、妙心寺一派が内部分裂を起こしてしまいます。この騒動に将軍や朝廷・大名までもが介入する事態となり、収拾がつかない状況になっていまうのです。この騒動は後に「永禄別伝の乱」と命名され、戦国期における宗教対立の恐ろしさを教訓としています。

順風満帆に見えた斎藤義龍の思いがけない最期

斎藤義龍は永禄4年(1561年)に32歳という若さで急死します。死因は病死とされていて、夭逝の一因には当時医学が発達していなかったこともあるでしょう。

義龍の没後、織田信長と均衡状態にあった形成も一気に逆転してしまいます。信長が美濃への侵攻に本腰を入れたため、義龍の後を継いだ子の龍興は信長の侵攻に為す術もなく、美濃の国を追われることになります。龍興はまだ幼い時分であり、突然の義龍の死で混乱が起きた美濃の国の長を務めるにはあまりにも若く、義龍の代役を務めさせることは酷でした。

美濃の国を信長に乗っ取られ、この後、歴史上に深く名を刻むことになる信長の活躍は、長らくこの美濃を拠点に展開されていきます。

まとめ

斎藤義龍の人生をふりかえってみて、何か感じるものはあったでしょうか。父に憎まれ、兄弟からも疎まれた義龍の成り上がっていく姿には強い信念を感じられます。また同時に、自身の敵と目した父や兄弟をも殺してまで、戦火の武将として生きた義龍の生き様に共感できる方もいることでしょう。殊勲を上げ、全盛期と思しきところで志半ばで病に倒れた義龍の最後はあまりにもあっけないものでした。織田信長でさえ一目を置いた戦国武将も病には勝てませんでした。

もしも、義龍が病に打ち勝っていたのならば、現代に伝わる歴史は全く違ったものになっていたかもしれませんね。

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