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歴史

モンゴル帝国を樹立!巨大帝国の皇帝チンギス・ハンの生涯

かつてユーラシア大陸の大半を支配下においたモンゴル帝国の祖こそチンギス・ハンです。彼は小さな集落の長から巨大な帝国の皇帝へとのし上がりました。この記事では彼がいかにして敵と戦い、その大帝国を築き上げたのかを見ていきます。

 

アジアを征服した皇帝チンギス・ハンの生涯

チンギス・ハンとして即位する。/wikipedeiaより引用

チンギス・ハンは、広大なアジアを支配下においた空前の大帝国・モンゴル帝国を樹立した人物です。しかし彼は生まれながらの皇帝ではなく、彼の若い頃は、小さな集落を治める酋長に過ぎませんでした。そんな彼がいかにして大帝国の皇帝となったのか、彼の生い立ちから帝国を拡大させていく過程を追っていきたいと思います。

チンギス・ハンの生い立ち

チンギス・ハンはモンゴル高原の北東部に広がる遊牧民の家に生まれました。彼の父はイェスゲイ・バアトルといい、チンギスハンはそのイェスゲイの長男として生まれました。そしてテムジン(鉄木仁もしくは鉄木真)という名前を与えられました。『元朝秘史』によるとテムジンが9歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた逸話が載せられています。この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族のデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出逢い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだと伝えられます。イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻ったといいます。しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、テムジンの暮らしは急変します。

 

父イェスゲイ急死後の苦難の生活

テムジンは、父の死後、直ちに家族のもとに戻されます。その後、テムジンが大きくなるにつれ、イェスゲイの子が成長して脅威になることを恐れた、タイチウト氏の人々によってテムジンは捕らえられます。囚われの身となったテムジンはこの絶体絶命の危機を、タイチウトに奴隷として使えていた牧民ソルカン・シラの助けなどによって、ようやく脱したと言います。また、成人すると、今度は宿敵メルキト部族連合に幕営を急襲され、婦人ボルテをメルキトに略奪されるなど辛酸を舐めます。この時、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者であったトグリル・カンやテムジンの盟友であるジャムカといった同盟者たちでした。このように成人をしたばかりの若きテムジンには苦難が連続して降り掛かってきたのでした。

 

諸部族を統一するまで

メルキトによる襲撃の後、トグリル・カンやジャムカの助けを得て勢力を盛り返したテムジンは、次第にモンゴルの中で一目置かれる有力者となっていきます。テムジンは振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、ジャムカやタイチウト氏のもとに身を寄せていた遊牧民が、次々にテムジンのもとに加勢するようになっていきます。テムジンはこうした人々を仲間に加えて勢力を拡大しますが、それとともに盟友ジャムカとの関係は冷え込んでいきます。そして、あるとき、ジャムカの一族がテムジンの領地の馬をひそかに略奪しようとして逆に殺害される事件が起こり、テムジンとジャムカは完全に仲違いしてしまいます。ジャムカはタイチウト氏と同盟し、テムジンとバルジュトの平原で会戦しました。十三翼の戦い(1190年頃)と呼ばれるこの戦いでどちらが勝利したかは史料によって食い違うものの、テムジンに味方した氏族の捕虜が戦闘の後に釜茹でにされて処刑されたとする記録は一致しており、テムジンが敗北したとみられています。ジャムカはこの残酷な処刑によって人望を失い、敗れたテムジンのもとに投ずる部族が増えるのでした。テムジンとジャムカの戦いはその後15年にも及び、長い戦いの末に、遂にテムジンはジャムカ陣営の最後の大勢力であるナイマンと北方のメルキトを破り、宿敵ジャムカを遂に捕らえて処刑します。やがて南方のオングトもテムジンの強さを認めて服属し、全遊牧民はテムジンの支配下に入ります。こうしてテムジンはモンゴルを統一したのです。

 

急速に進む帝国の拡大

1206年2月、テムジンはモンゴルの最高会議であるクリルタイを開き、諸部族全体の統治者である大ハーンに即位して、モンゴル帝国を樹立します。チンギス・ハンという名はこのときテムジンに捧げられた尊称です。ちなみに、「チンギス」という語彙の由来については確実なことは分かっていません。元々モンゴル語ではなくテュルク語から来た外来語だったと見られており、「海」を意味するテンギズを語源だとする説や、「世界を支配するもの」を意味したとするなど、様々な説があります。クリルタイが開かれたときには既に、チンギスは彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていました。モンゴル軍は堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦し、また1209年に西夏との講和が成立しましたが、その時点までには既に西夏の支配力を減退させ、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせています。さらに同年には天山ウイグル王国を服属させ、経済感覚に優れたウイグル人の協力を得ることに成功します。

 

チンギス・ハンの征服事業

チンギス・ハン/wikipediaより引用

モンゴルを統一し、西夏とウイグルを支配下においたチンギス・ハンは、南方の中国や、西方の国々にたいする遠征の準備を進めます。ここでは金朝、西遼、クルチュク、ホラズム・シャー朝との戦いを見ていきます。

 

金朝の征服

着々と帝国を拡大させていくチンギス・ハンは、中国に対する遠征の準備を整え、1211年に金と開戦します。三軍に分かれたモンゴル軍は、長城を超えて、長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破ります。この戦いは、モンゴル軍は野戦では勝利を収めたものの、堅固な城壁に阻まれ攻城戦は失敗します。しかし、チンギス・ハンは攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身に付けていきます。そのため、以後の戦いでは、攻城戦であっても有利に戦いを進めることができるようになりました。こうして中国内地での野戦での数多くの勝利と攻城戦による都市攻略の成功の結果、チンギスは1213年には万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合していきます。翌1214年、チンギスは金と和約を結んでいったん軍を引きましたが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河の南の開封に首都を移した事を背信行為と咎め(あるいは口実にして)、再び金を攻撃しました。そして、1215年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(現在の北京)を包囲し、遂に陥落させます。

 

西遼・クルチュクの征服

このころ、かつてナイマン部族連合の首長を受け継いだクリュチュクは西走して西遼に保護されていましたが、クチュルクはそれにつけ込んで西遼の君主から王位を簒奪していました。モンゴル帝国は西遼の混乱をみてクチュルクを追討しようとしましたが、モンゴル軍の主力は、このときまでに西夏と金に対する10年にも及ぶ遠征によって疲弊していました。そこで、チンギスは腹心の将軍ジェベに2万の軍を与えて先鋒隊として送り込み、クチュルクに当たらせます。クチュルクは仏教に改宗して地元のムスリムを抑圧していたので、モンゴルの放った密偵が内乱を扇動するとたちまちその王国は分裂し、ジェベは敵国を大いに打ち破りました。

 

ホラズム・シャー朝の征服

1218年、チンギス・ハンはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣しましたが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが彼らを虐殺しました。その報復としてチンギスは末弟テムゲ・オッチギンにモンゴル本土の留守居役を任せ、自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子たちを含む20万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219年にシルダリア川流域に到達しました。モンゴル軍は金遠征と同様に三手に分かれて中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服します。モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめに破壊されました。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220年までにほぼ崩壊したのでした。

 

チンギス・ハンの死とモンゴル帝国のその後

カスピ海南東部のアーバースクーン島にて他界する。/wikipediaより引用

一代で巨大帝国を築き上げた皇帝チンギス・ハンの死後には様々なエピソードがあります。ここではチンギス・ハンの死と、彼の子どもたちの内紛についてを取り上げたいと思います。

 

チンギス・ハンの死

チンギス・ハンは1226年秋からの西夏に再出兵し、首都寧夏(ねいか)に迫り、平凉付近に本陣を布きます。1227年夏、西夏国王が和議の申し入れをしてきた際、チンギス・ハンは甘粛省六盤山中の清水県で狩猟中に落馬した傷が悪化して、8月18日に亡くなりました。その死は秘密にされ、遺命により西夏国王とその一族、および寧夏城の住民はことごとく殺戮されました。チンギス・ハンの遺骸は喪を秘してモンゴルに移されましたが、棺を守る兵は途中で遭遇した者を、すべて殺しながら進みました。その理由は訃報を秘匿するためと、ハンの死後の生活に仕えさせるという迷信があったからです。はじめて喪が公表されたのは遺骸がケルレン河の源に近い本営に到着した後でした。遺骸は、一族や諸将の到着を待って、オノン・ケルレン・トラ三河の源ブルハン山中の一峰に埋葬されました。林の民ウリャンハイ族の千戸がその地の守護を命じられ、外部の者は近づくことを許されませんでした。チンギス・ハンとその後継者の墓の所在は今に至るまで、一つも発見されていません。モンゴル人などの北方遊牧民は墓を地下深く匿す習慣を持っていたからです。

 

チンギス・ハンの子孫たちの内紛

チンギス・ハンには4人の息子がいました。長男ジュチは金や西方遠征でも働きは抜群で優秀でありましたが、実はチンギス・ハンの実子ではない、という噂があり、ハンにはなれないだろうと言われていました。次男のチャガタイは気性が激しく、人望がありませんでした。三男がオゴタイですが、おとなしく特に取り柄のない人物と思われていました。四男のトゥルイは末っ子で父に最もかわいがられており、また優秀な実力者と思われていました。モンゴルには特に決まった相続法はなく、家督は実力主義、家産は末子が有利という傾向があったので、トゥルイが選出されることが予想されていましたが、結果はオゴタイになりました。それは、トゥルイが継承する予定の家産をオゴタイに譲ったためといわれています。チンギス・ハンの4人の子どもたちの仲は、それほど悪くなかったようで、オゴダイの代までは結束して征服事業に突き進みますが、孫の代となると皇帝の座をかけて内戦状態に陥るなど、血で血を洗う骨肉の争いとなってしまいます。そのため、チンギス・ハンの死後は、代を経るごとに内紛と分裂状態が深まっていき、皆で1つにまとまって征服事業を行うことが不可能になってしまいました。

 

チンギス・ハンの生涯を振り返る

いかがでしたか?小さな集落から身を起こし、巨大帝国の皇帝になったチンギス・ハンを紹介しました。世界の四分の一近くを支配するモンゴル帝国の礎を築いたチンギス・ハンですが、果たして彼があと10年長く生きていたら、どれほど多くの領土を支配下においていたでしょうか。そういった想像をさせてしまうほど、彼はかつてないほど強力な軍隊と抜群の統率力をもっていました。しかし、そんなチンギス・ハンにも自らの後継者を円滑に指名することができませんでした。そのため、息子たちが激しい後継者争いを始めてしまったのです。栄華を極め、当時の最高権力者であったチンギス・ハンにも、思い通りにならないことがあったのだと考えると、歴史とは何とも面白いものですね。

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