[ ソシエド ]

歴史と政治と地理を楽しく解説するソーシャルスタディメディア

歴史

ジャンヌダルクとは?100年戦争でフランスを救った聖女の生涯まとめ

皆さんは、ジャンヌ・ダルクという人物をどれだけ知っていますか?どこで生まれ育ったか、彼女が戦いに出た年齢、何歳の時になぜ処刑されてしまったかなど、詳しいことはわからないという方は多いのではないでしょうか?そんな方々のために、今回は「ジャンヌ・ダルク」について、掘り下げていこうと思いますので、最後までじっくり読んでいってください。

 

悲劇の聖女ジャンヌ・ダルクの生涯

ジャンヌ・ダルクは、女戦士としてフランスを救った聖人ですが、その生涯はとても短くかつ残酷でした。まさに「悲劇のヒロイン」という言葉が当てはまる人生だったと思います。まだ10代だった彼女にいったい何が起こったのでしょうか?彼女が生まれてから処刑されるまで、彼女の人生にフォーカスして、一つ一つ追っていきましょう。

 

ジャンヌ・ダルクのプロフィール

まずは、ジャンヌ・ダルクを一から知るために、簡単にプロフィールから見ていきましょう。

名前 ジャンヌ・ダルク
出身地 フランス ドンレミ村
生年月日 1412年1月6日
宗教 キリスト教 カトリック
死没 1431年5月30日
享年 19歳
死因 火刑
別名 オルレアンの乙女

以上が彼女の簡単なプロフィールです。彼女は20歳を迎える前に処刑されています。彼女が戦場で指揮を執っていたのは、10代のことです。フランスを救った少女に、一体何が起こったのでしょうか?

 

ジャンヌ・ダルクの生誕から聖女になるまで

ジャンヌがお告げを聞くまでの生い立ちは詳しく分かっていません。フランスのドンレミ村に暮らし、神を尊ぶ日々を過ごしていました。時代は100年戦争の真っただ中。100年戦争とは、1337年辺りから開始された、イギリスとフランスによる国境線を巡る争いです。映画の中で語られるシーンでは、彼女が生まれ育ったドンレミ村がイギリス軍の奇襲に合い、ジャンヌを守ろうとした姉が殺されてしまうというものでしたが、事実は不明のままです。

 

ジャンヌが聞いた神のお告げ

ジャンヌが12歳の時、フランスは危機的状況でした。フランスのオルレアン市は、イギリス軍に囲い込まれ、いつ倒れてもおかしくない状況だったのです。その頃、ジャンヌの下に神のお告げが舞い降りたと言われています

「ジャンヌ、イングランドと戦い、オルレアンとフランスを救うのです。そして、シャルル王太子をランスでフランス王位に即位させなさい。」

このお告げを伝えに舞い降りたのが「大天使ミカエル」「アレクサンドリアのカタリナ」「アンティオキアのマルガリタ」だったと言い伝えられています。

 

なぜ突然現れた17歳のジャンヌは王太子に認められた?

ジャンヌは、お告げを聞いた後、王太子に会いにシノン城に向かいます。王太子は、ジャンヌが城に到着すると、ジャンヌの力がどれだけのものか彼女を試しました。

城内での宴会の中、王太子はジャンヌに大勢の貴族の中に混じっている自分を見つけるように命じたのです。会ったこともない人の中から王太子を見抜くのは至難の業です。しかし、ジャンヌは迷わずシャルル王太子の下へ向かい、ひざまずいたと言われています。王太子は、「会ったこともない人間を迷わず王太子・本人と当てて見せたこと」「シノン城までの危険な道のりを危機に合わず無事たどり着いた奇跡」などを称賛し、彼女を”神の使い”と認めました。

 

奇跡と勝利・オルレアン開放

ジャンヌは、その後、イギリスに包囲されているオルレアンへ向かうことになります。彼女は騎士の軍装を着用し、軍と共にロワール川を渡り、イギリス軍の襲撃に合うことなく、オルレアンに入ることができました。ジャンヌは、数ある戦いで旗手として戦場に参加していました。映画「ジャンヌ・ダルク」では、剣ではなく旗を持つことを選択した理由として「人を殺さないから」とされています。彼女は軍の先頭に立ち、士気を鼓舞する役割があったといいます。

彼らは、わずか2日で「サン・ルー砦」「サン・ジャン・ル・ブラン砦」「オーギュスタン砦」を攻め落とすことに成功しました。戦いの中盤に、ジャンヌが流れ矢で負傷したことにより、一時的にフランス軍の士気は落ちますが、それでも立ち上がったジャンヌを見て、”奇跡だ”と感じた軍の士気は一層、鼓舞されました。不意を突かれたイングランド軍はたちまち崩壊し、遂にジャンヌはイングランド軍・最後の砦「トゥーレル砦」を攻め落としました。ジャンヌが来てわずか10日で、オルレアンは解放されたのです。これが「オルレアンの奇跡」です。

 

シャルル7世の裏切り

彼女の戦いは、オルレアンを救うことだけではありませんでした。負傷した傷が治ったころには、パリを奪回すると言い出しました。しかし、このパリの奪還は、シャルル7世から撤退命令が出され従うことになります。その後、イングランド軍とフランス軍の間では一時的な休戦協定が結ばれます。

休戦協定の失効後、ジャンヌはコンピエーニュ包囲戦に援軍として参加しています。しかし、イングランド軍が6,000人の援軍を投じ、戦況は悪化します。その際、彼女は兵士たちには撤退を命じながらも、自分自身は、前線で戦い続けたと言われています。そんな状況の中、彼女はブルゴーニュ公国軍のリニー伯に捕虜として捕らわれの身となってしまいました。

その頃ジャンヌは、シャルル7世にとって邪魔な存在になっていました。シャルル7世は、彼女に恩があるにもかかわらず、身代金を払わなかったのです。最終的に身代金を払い、ジャンヌの身柄を引き取ったのはイングランドだったのです。

 

仕組まれた異端裁判

イングランドによって開かれた異端裁判は、ジャンヌにとって不利な裁判でした。ジャンヌには弁護士をつける権利すら与えず裁判は進められ、ジャンヌには不利な尋問が投げかけられる形となりました。裁判記録もジャンヌに不利になるように改ざんされていたようです。

ジャンヌは「悪魔のお告げを聞いた異端者」、「異端の魔女」、「女性の身分でありながらも男装した規律違反者」などと言われ、投獄されていました。異端の罪を突き付けられた彼女は、牢獄で身を守るためにとった男装行為を行いました。しかし、その行為は異端の再犯ともとられてしまいます。

牢番の暴行などでくたくたになってしまったジャンヌに、1枚の紙が手渡されました。何の紙かもわからず、ジャンヌは言われるがままにその紙にサインをします。しかし、彼女がサインした書類は死刑宣告にも等しい”供述宣誓書”だったのです。この紙によってジャンヌはついに異端を認めてしまうのです。

 

そしてジャンヌ・ダルクは死刑に…

1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクは火刑に処せられました。彼女の確実な死を見せ占めるために、真っ黒に焼き焦げられた姿を民衆に見せられ、再び火を放たれ灰になるまで焼かれたといいます。

 

ジャンヌの死後。悲劇からの復活

ジャンヌの死後、ジャンヌの死刑に不服を唱えるものが現れました。異端検察総監であるジャン・ブレアルとジャンヌの母イザベル・ロメです。

 

ジャンヌの復権裁判が開始

ジャンヌが異端の罪で処刑された24年後の1455年11月。ジャンヌ・ダルクの復権裁判が開かれました。復権裁判とは、有罪判決が正しいものであったか、また判決自体が正当に処理されたものなのかを問う裁判です。これを要請したのは異端検察総監であるジャン・ブレアルとジャンヌの母イザベル・ロメでした。ジャンヌが刑に処せられても尚、彼女が無実であり、それを証明したいという母の願いだったのでしょうか。

 

ジャンヌ、今更、無罪に?

そして、パリのノートルダム大聖堂でジャンヌの復権裁判が執り行われました。神学者の審査員は115名の証人の証言を分析し、純潔性や誠実性、そして勇気があったという証言が多く見られたことが明らかになりました。証言をした人の中には、彼女の幼少期を知るドンレミ出身の村人、彼女と共に戦った兵士、彼女に救われたオルレアン市民などがおり、彼女が多くの人々に愛されていたことを物語っています。多くの彼女を支持する証言や、当時の記録の矛盾点などが再検討されました。

1456年7月7日、法廷は「ジャンヌは70カ条の告発文の各条につき否認をし、その後12カ条に変更されたが彼女には読み聞かされなかった」とし、有罪判決を無効としました。有罪判決で処刑されて24年経ち、彼女の無罪は証明されました。しかし、彼女の「死」というものは決して無効にはならず、ただその無念を晴らすかのようにフランス各地で喜びと共に祭典が開かれました。現在は、オルレアンの乙女として、ジャンヌ・ダルク像や、ジャンヌ・ダルク教会が建てられ、ジャンヌの故郷や、処刑された広場など、聖地巡礼などで訪れる人などがいるようです。

 

まとめ:ジャンヌダルク、昔から言い伝えられる勝利の女神

ジャンヌダルク像

今回は、オルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクについて詳しくご紹介させていただきました。読んでいるだけでも悔しい思いを感じた方も中にはいるのではないでしょうか?十代の少女が、男たちに囲まれた戦場へ繰り出し、奇跡を起こしたなんて、今なお、映画などで取り扱われるのも納得です。最後には、無念の死を遂げることになってしまいましたが、死後、無罪が確定した彼女の魂は報われたのでしょうか?現在は、彼女の名前が戦艦や空母につけられることも多く、彼女は現代でも勝利の女神として返り咲いているようです。

[ ソシエド ]をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む