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歴史

「フランス革命」とは?~自由・平等・友愛!世界で最も有名な革命~

フランス革命は世界史上もっとも重大な革命だったと言われています。国王が国を統治する前近代的な時代から、政治の舞台に本格的に国民が登場する近代的な社会を樹立するきっかけになったためです。

「自由・平等・友愛」は革命期に用いられたスローガンで、今でもフランスのスローガンになっています。そんな有名な革命、フランス革命を今一度おさらいしてみましょう!

 

フランス革命前夜

パリ コンコルド広場(革命広場)

フランス革命が起こる直前、アメリカが最も高い軍事力を誇ると言われたイギリスに独立戦争に勝利します。近代初の国王・君主が存在がいない国家、共和制国家が誕生します。これはヨーロッパ諸国にとって大変ショッキングな出来事でした。そして、絶対王政のフランスを揺るがすことになります。

 

ヴォルテールやルソーの人民主権論

この時代の啓蒙思想家のヴォルテールやルソーによって”社会契約説”が多くの知識人に影響を与えました。”社会契約説”とは近代憲法の基礎的なもので、国の正当性の契機を市民に同意を求める理論のことを言います。ルソーは1760年代に「社会契約論」を発表。これまでの国王の専制政治にはじまり、協会の教えや家庭道徳まで痛烈に批判した内容だったため発禁になるような内容でした。そのため、ルソーはフランスの手から逃れるためヨーロッパ各地を転々とした亡命生活を送る事になります。

しかし、その思想はフランス国民の間に確実に浸透していっていました。社会契約説に共感した市民たちは、今まで自分たちを虐げてきた旧体制(アンシャンレジーム)に不満をつのらせていきます。

 

民衆の不満が募る階級制度

球戯場の誓い
球戯場の誓い/wikipediaより引用

アンシャンレジームとは革命以前の旧体制の呼び名で、階級制度がこの体制の最大の特徴です。この階級制度は基本的に3つの身分からなり、”聖職者”と”貴族”を頂点とし、それを”平民”が支えるというピラミッド式です。この身分のバランスが異常で、”聖職者”と”貴族”ら”特権身分”と”平民”の割合は2対98だったとされています。

特権身分の人間は大変贅沢な暮らしをしていた上に税金も免除されるとういう超高待遇です。対して平民たちは苦しい財政難の財源のための増税につぐ増税で負担は大変なものでした。

 

深刻な財政危機、平民にのしかかる負担

この当時のフランスには過去の国王、ルイ14世、ルイ15世が作った膨大な財政赤字を抱えたままでした。赤字の原因は長引く戦争の軍事費の他、宮廷での異常なまでの浪費だったとされています。

そんな最中、アメリカがイギリスに対しての独立戦争が起こします。当時のフランスの最大の敵国はイギリスです。そのため、フランスはアメリカに巨額の軍事支援を行いました。この戦争だけでなく、フランスは欧州各地で戦争をしており、軍事費は膨れ上がる一方でした。

さらに、1783年アイスランドのラキ火山が噴火、噴煙がフランス本土にまで及び日照不足から農作物の大不作に陥ります。そのため都市部へ穀物が届かないようになり、小麦の価格が前年比で40%も高騰してしまいます。主食であるパンの価格も跳ね上がり飢餓と貧困を生み出す事になります。農作物の収穫量が減少したことで国庫の収入も激減してしまいます。

当時の財政状況は、歳入が5億リーブルに対して、財政赤字は45億リーブルと途方もないものでした。そこで、ルイ16世は特権身分からも徴税して税務から改善を図ろうとしますが猛反発にあいます。しかし、一部の貴族が課税の賛否を決めるための”全国三部会”の開催を主張し、これがルイ16世に認められ全国三部会が開催されます。

 

全国三部会の招集

全国三部会とは、三つの身分、第一身分である聖職者、第二身分である貴族、そして第三身分である平民、それぞれの代表が集まり国の問題について議論が行われます。その議論の議題はほぼ課税に関するでした。しかし、15世紀以降になると絶対王政が本格的になると三部会の意味が薄くなり、1614年を最後に招集されていないという歴史があります。

国の危機ということでようやく1789年にヴェルサイユで開催された三部会ですが、課税方針の議題に入る前に議決方式を巡り特権身分と平民が争います。特権身分達は身分代表で1票を主張します。対して平民は議員にい1票を主張、互いに有利な議決方式の議論は堂々巡りになり、結局この議決方式の話し合いだけで40日間費やすことになります。

やがて、平民達は三部会自体に見切りをつけます。平民達は自分達”第三身分”ではなく”人民”のための議会、「国民議会」を宣言します。

ルイ16世はこの動きに抵抗し、急遽会議場を閉鎖します。国民議会は会議場近くの球技場に集い議論を重ねました。国民議会は新たな憲法を制定するまでこれを解散しないと誓います。これが有名な「球戯場の誓い」です。やがて、特権身分の中にもアンシャンレジームに難色を示していた者がこの国民議会に参加し、国王もついにはこれに屈し国民議会を承認します。パリや各地方都市の民衆からも国民議会を支持する声があがりました。民衆から支持を得た国民議会は組織を憲法制定国民議会として再編します。

その一方では、国民議会に反対した特権身分は平民達を弾圧するため軍隊をパリ、ヴェルサイユ周辺に派遣させることを国民に強要し、国王、特権身分と平民の緊張は高まっていきます。

 

フランス革命のはじまり

フランス革命記念日花束

両者の緊張が高まるなかで民衆から三部会を集結させるなどして民衆から支持を得ていた財務大臣ジャック・ネッケルが国王によってその席から降ろされてしまいます。これに民衆が猛反発、ここからフランス革命が本格的にはじまります。

 

バスティーユ牢獄襲撃!

バスティーユ襲撃
バスティーユ襲撃/wikipediaより引用

ネッケル罷免の背後にはパリに派遣した2万もの軍隊の武力よる圧力を知らしめるものでした。ルイ16世は民衆に対して武力行使は消極的でしたが、政府内部は民衆に対して強硬策の意向を示していました。

民衆の怒りの矛先はバスティーユ牢獄へと向けられます。バスティーユ牢獄は主に政治犯を収容してきたアンシャンレジームの象徴とされた建物です。そして、大量の武器、弾薬を保管していたこともあり、民衆は自衛と秩序維持を名目にこれらを求めてバスティーユ牢獄に押し寄せました。

1789年7月14日、ついには軍隊と民衆が衝突し、激しい銃撃戦になります。要塞のようなバスティーユ牢獄でしたが、興奮した民衆達の力によって陥落します。この事件はルイ16世を驚愕させます。民衆側に譲歩し、ネッケルの復職とパリから軍隊の撤退を宣言。さらに、新パリ市政府当局とブルジョワジー(平民の中でも中産階級の人達のこと)の民兵、国民衛兵を認めさせます。この事件以降、フランス各都市ではブルジョワジーを中心とした市政府当局が設置され、市政の実権を握っていきます。

このルイ16世の政策は特権身分の聖職者、貴族達そして王族にとって民衆への歩み寄りと捉えられました。彼らは民衆の革命に対しても武力行使も辞さないという構えです。あいかわらず武力行使に消極的なルイ16世は国民議会と政府の板挟みになり、その存在はますます形骸化していきました。

 

国民議会の人権宣言

バスティーユ牢獄が陥落したニュースはフランス各地に知れ渡り、民衆は暴徒化し革命の騒乱は全国にひろがります。この大衆の勢いに乗じるかのように国民議会は旧体制の特権の廃止を宣言、1789年8月26日、人権宣言を採択します。この人権の主な内容は「自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立」などがあります。封建的時代から近代的な国民が政治の主権を握る近代社会の幕開けとなる出来事です。

この時点ではルイ16世が主権者です。当然ルイ16世は民衆が法令を主導するこの人権宣言を拒絶し、宣言を承認しません。王妃マリー・アントワネットが特に第三身分、平民に対して侮辱的な態度を示していた事をはじめ、ルイ16世の周囲が強硬派で平民達には屈しないという姿勢を見せていた事も大きな要因です。

 

革命の旗

特権身分側と民衆側の政治闘争に加え、ますます深刻になる作物不作の影響でパリの物価が高騰しはじめます。これに不満と怒りを爆発させた民衆、特に数千人に及ぶ女性達が武器を手にとり雨が降る中パリ市役所前に集結します。そこからヴェルサイユ宮殿にむけて「食料をよこせ!」と行進をはじめました。

ついには、ヴェルサイユ宮殿に突入しルイ16世と議会に食料の要求をします。この集団の一部は暴徒化してしまい、ルイ16世はその圧力に屈し先の人権宣言を承認します。さらに、民衆の女性達は王族を拘束します。ルイ16世ら王族はパリのテュイルリー宮殿に移り住み、パリ市民に監視され暮すことになります。

この時期の革命の指導者は立憲君主制派のミラボー、ラファイエットの主導のもと行われていました。市民軍は貴族でありながら自由主義のラファイエットを総司令官に任命します。ラファイエットは革命の旗を提案します。その時に掲げられていたトリコロールカラーの旗が革命のシンボルになり、これが今のフランスの国旗になっています。

白はフランス王家、赤と青はパリ市の紋章の色、王家と市民の和解の願いが込められたデザインです。(青は自由、白は平等、赤は友愛を表しているという説は俗説です)革命で生まれた民衆の力のなかに、フランスの伝統的な力を組み合わせ新しい国家全体の融和のシンボルとして生まれたと考えられています。

 

オーストリアとプロイセンの干渉

いっそう過激化していく革命のなか特権身分は国外へ亡命していきました。ルイ16世、王族らも王妃マリー・アントワネットの実家オーストリアへの逃亡を計画し、マリー・アントワネットの愛人とされていたスゥエーデン貴族の助力もありパリから逃亡します。国王としてフランスから離れるというのは不名誉だと考えたルイ16世は国外ではなくフランス国境のモンメディ要塞を目指します。ここで亡命した特権身分らの軍隊を終結させ革命を鎮圧する算段でした。

1791年6月20日王族一行はパリから逃亡します。しかし、マリー・アントワネットが主導した計画は大変ずさんなもので、すぐに王族逃亡のニュースは民衆に知れ渡ります。さらには逃亡しているはずが絢爛豪華な馬車で悠々と進んでいたので、それを不審に思った市民にあっさり見つかってしまい、国境手前の町ヴァレンヌで捕らえられます。その5日後にはパリに連れ戻されてしまいます。

このルイ16世、王族逃亡事件はフランス国民を失望させ、彼の反革命的思想がフランス内外にも知れ渡ることになります。マリー・アントワネットの実家オーストリアはフランス王室の身を案じ、プロイセンは革命の流れが自国にも及ぶことを恐れます。

そこで両国は1791年8月27日”ピルニッツ宣言”という共同宣言をフランス革命政府に突きつけ圧力をかけます。その内容はまとめると「ルイ16世の現状の憂いは全ヨーロッパ主権者の共通の利害」であり、「ルイ16世の身の保証をすること」さもなくば「我々は武力で行動を起こす」というものです。しかし、この宣言はフランス革命政府に対するただの牽制でした。本気で戦争をする準備も意志もなかったのですが…。

 

フランス革命勃発!

フランス革命のプレート

革命の雰囲気を恐れたオーストリア、プロイセンの”ピルニッツ宣言”は彼らの思いとは裏腹に、亡命貴族らをおおいに奮い立たせパリ市民に対し脅迫めいた挑発をします。革命派は激怒し、ジロンド派と呼ばれる主戦派グループが台頭、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告しヨーロッパ全体を巻き込む戦争へと発展していきます。

 

オーストリアへ宣戦布告!

ピルニッツ宣言で高揚した亡命貴族のプロヴァンス伯(後のルイ18世)は、革命政府が制定した憲法批准に断固反対するとした声明を出すなど勢いづき、「ルイ16世の身に何かあれば、外国の屈強な軍を率いてパリを殲滅するつもりだ」と革命政府を脅迫しました。

これに対して革命政府、ブルジョワジー層から支持を得ていたジロンド派内閣は政府に対する重大な脅迫であるとして1792年4月オーストリアに宣戦布告します。革命を維持するための戦争、”フランス革命戦争”が勃発します。

 

革命政府軍の各地での敗戦

8月10日事件(1793年画)
8月10日事件(1793年画)/wikipediaより引用

革命政府軍はオーストリア、南ネーデルラントに侵攻します。しかし、フランス軍の士官達は貴族階級でそもそも革命政府には非協力的で、兵士達の士気も低く、敵前逃亡や、貴族階級である士官を殺害したりと、軍機構は混乱し組織として機能していませんでした。さらに、マリー・アントワネットが革命政府軍の情報を敵方に流していた事もあり、革命政府軍は各地の戦いに敗れていきます。

革命政府はこの事態に「祖国は危機にあり!」とフランス各地に呼びかけます。この呼びかけに呼応しフランス各地からパリに義勇軍が集まります。この時マルセイユの義勇兵達が歌っていた”ラ・マルセイエーズ”という軍歌が民衆に広まります。この”ラ・マルセイエーズ”が現在のフランスの国歌になっています。

さらに、フランスの危機は続きます。プロイセンがフランスに宣戦布告、国境を越え”ヴェルダンの戦い”でヴェルダンを陥落させます。プロイセンは「フランス王政を復古させ、反対する者は処刑する」と宣言します。この宣言の要請にもマリー・アントワネットが関わっているとされています。

 

王権の停止

プロイセン側の脅迫じみた宣言を聞いたパリ市民は激怒します。パリで市民と義勇兵の大集会が行われ、「王と呼ばれる男を宮廷から追い出せば問題は解決する!」と声をあげ、ルイ16世の退位を議会に要求します。「(1792年)8月9日までに王権の停止を議会が決議しなければパリの諸地区は武器を手に立ち上がる」と宣言します。

やがて議会の決定が出ぬまま期限切れを迎えます。その間に平民の下層階級民のサン・キュロットとよばれる急進的革命派の市民達が、市政府当局に代わる自治体”蜂起コミューン”を組織していました。”蜂起コミューン”は独裁的な権限を持つ組織です。これにパリの民衆や各地から集った義勇兵も参加します。

8月10日、テュイルリー宮殿には総勢2万人もの大集団が押し寄せました。もう逃げ場がないと悟ったルイ16世はマリー・アントワネットを連れ議会に逃げ込みます。宮殿では民衆や義勇と宮殿を守るスイス傭兵の激しい銃撃戦となりました。

数時間に及ぶ激しい戦闘の末、民衆が宮殿を制圧し勝利します。議会はルイ16世に対し王権の停止を要求します。ルイ16世はじめ王族全員はタンプル塔に幽閉されます。

この王権停止の一連の事件は”8月10日事件”と呼ばれ、革命期のターニングポイント、革命の第一期と呼びます。

 

終わらない対外戦争と不穏な内政

1792年9月、プロイセン軍との戦争”ヴァルミーの戦い”では義勇兵として参加したサン・キュロット達と砲兵隊の活躍により侵攻をくい止め、敵軍を国境外まで追い出すことに成功します。この戦争での初めての勝利となり、フランス国民を奮い立たせました。ここからフランス軍は攻勢に転じます。オーストリア軍にも勝利し、南ネーデルラントを占領、ドイツ方面はフランクフルトまで侵攻します。

一見順調のようなフランス軍ですが内情は良くありませんでした。義勇兵達は満期を理由に帰郷、常設軍の兵士には十分な給与も支払われておらず、前線の士気は低下していました。

”8月10日事件”と”ヴァルミーの戦い”でサン・キュロット達は政治的発言力を持ち始めます。サン・キュロットは急進的政策を進める”ジャコバン派”を支持し、革命は極左的な色合いを見せていきます。

そんな最中、とうとうルイ16世の処刑が決まり、ヨーロッパ全体の流れが変わります。

 

フランス新政府樹立

ナポレオン・ボナパルト
ナポレオン・ボナパルト/wikipediaより引用

ルイ16世が処刑されたことで君主制国家らは反革命を掲げフランス国境を越え侵攻してきます。国内では政治が安定せず恐怖政治と呼ばれる独裁政治が行われるまでに。さらに体制がかわっても安定しない内政ではクーデターが横行、そして有名なあの有名な”皇帝”が登場します。革命の行方はどうなるのでしょうか?

ルイ16世、マリー・アントワネットの処刑と立ち上がる反革命諸国

王政停止後、財産や納税額などに関係なく全ての男子に選挙権が与えられた”普通選挙”が行われ、新しい議会”国民公会”の議員が選ばれました。そして、正式に王政停止、フランス第一共和制を宣言します。

1793年1月14日、共和政府はルイ16世を裁判にかけました。裁判の結果は賛成387対反対334でルイ16世の死刑がきまります。戦争の際にフランス政府と国民を裏切っていた証拠が多数見つかった事が決め手といわれています。1月21日、パリの革命広場(現在のコンコルド広場)につめかけた2万人の市民の前でギロチンによって処刑されました。その後、マリー・アントワネットも市中引き回しの末処刑されます。

ルイ16世の処刑はヨーロッパの国々を動揺させます。スペインやオランダ、さらにフランスの最大の敵国ですが今回の市民革命に関しては同情の色をみせていたイギリスさえも反革命の旗を立てます。また、イギリスが参戦するのにはオランダがフランスに侵攻されると安全保障の問題となるという理由もありました。

そしてイギリスを中心として第一次対仏大同盟が結成、これに対してフランスはイギリスとオランダに宣戦布告します。しかし、フランス軍の状況はあいかわらず疲弊したままで、内政もままならないといった状況でした。

 

混乱極めるフランス

1793年2月、国民公会は戦力増強のため兵士を”30万人募兵”の名のもと募集しますが、思うようには集まりませんでした。それどころか、募集に対して反発が起こり内乱にまで発展してしまいます。南ネーデルラントの最前線では政府の方針を無視した指揮官が独断でオランダに侵攻し敗北してしまいます。

南フランスでは左派勢力”ジャコバン派”に対する不満から暴動が発生します。さらに、マルセイユ、リヨンで反政府政権が誕生し、王政の支持を続ける王党派がトゥーロンで政府に反旗を翻しイギリス軍を味方につけます。これに乗じイギリスは海上を封鎖、地中海の制海権をにぎります。オーストリア軍も再び攻勢に転じ、フランスは危機に陥ります。

 

ジャコバン派の恐怖政治!

対外戦争が窮地のなか、フランス国内も情勢はあいかわらず不安定なままです。先の”30万人募兵”の内乱は拡大し、テロリズムも続発しました。

不安定な情勢に追い打ちをかけるように、ブルジョワジーに支持されていた”ジロンド派”が下層市民の食糧問題には何も対策しないと宣言します。もちろん、下層市民達は怒りを爆発させます。下層市民の支持を得ている”ジャコバン派”は国民公会からジロンド派を追放します。政権はロベスピエールという人物が実権を握ることになります、

ロベスピエール、ジャコバン派の行った政治は独裁的で、ジャコバン派の意にそぐわない反対派閥を次々とギロチンにかける恐怖政治を行いました。自己の理想とするフランス共和制実現のために粛清を続けます。

1793年8月、劣勢が続く戦争に対してジャコバン派は”国家総動員”を発令します。徴兵制度で各階級の国民を平等に集め、120万もの兵力を獲得します。当時のヨーロッパの君主制国家の軍の主力は傭兵が中心で、この数の兵力は圧倒的なものでした。フランスの巨大国民軍は反撃に転じます。

各地で攻勢のフランス軍は、マルセイユ、リヨンの反乱を鎮圧します。さらに重要な港湾都市トゥーロンは若き砲兵士官ナポレオンの作戦によって奪還に成功します。その後も各地にフランスが長年抱いていた領土拡大という野心に基づき、ヨーロッパの各地域を征服していきます。しかし、この頃から戦争目的が革命戦争から侵略戦争へと様変わりしていってしまいます。

 

巻き起こるクーデターの嵐!強まる政情不安定

ロベスピエールらジャコバン派の恐怖政治の下フランス国内外の争いをひとまず収める事ができましたが、ジャコバン派の手によって反対派らの人間が約4万も処刑されたとされています。

参政権を手に入れた下層市民、土地を与えられ保守思想になった農民らは、インフレと恐怖政治に脅えていました。ついにはロベスピエールを政治の舞台から引きずり下ろすクーデターを計画します。これを”テルミットのクーデター”といいます。

恐怖政治に嫌気が差していた議員達もこれに呼応します。国民公会でロベスピエールらジャコバン派の逮捕の採択が行われ、全会一致で逮捕が決議されます。1794年7月、軍に逮捕されたロベスピエールらジャコバン派22名はじめ、コミューンのメンバーたちはギロチンによって処刑されました。

ジャコバン派の粛清によって革命は一つの結末を迎えます。極左的な過激な革命活動は静まっていきます。再び中産階級を支持層とするブルジョワジー勢力が政権を握る事になります。国民公会は解散され、1795年10月総裁政府が新設されます。

新たに立ち上がった総裁政府ですがさっそく危機が訪れます。王政を支持する王党派が共和制反対を掲げ総裁政府に対して武装蜂起します。総裁政府はこの王党派のクーデターをナポレオンを使い制圧します。この手柄によってナポレオンはフランス国内軍最高司令官の就任します。

 

ナポレオンのクーデター!革命の終結

総裁政府の不安定な情勢は続きます。共産主義思想家のバブーフが私有財産制の廃止を掲げ武装蜂起の陰謀を企てます。バブーフを逮捕した総裁政府は左派議員達に危機感を抱き、左派議員を議会から追放するクーデターを起こします。しかし、このクーデター直後には議会では左派が議席を占め、二人の総裁が殺害されるクーデターが起きます。このように相次ぐクーデターで内政は不安定極まりない状況でした。

対外戦争も長期に渡り不利な情勢でした。オーストリアとの戦いではナポレオンの活躍により、オーストリアから停戦協定を結び、これにより第一次対仏大同盟を崩すことはできましたが、ナポレオンはその後のエジプト遠征の作戦にて大敗します。さらにはロシアが参戦し第二次対仏大同盟が組まれフランスは劣勢に立たされます。

総裁政府の総裁の一人シェイエスは国内外の混乱を安定させるべく強力な政府をつくるため憲法の改正を企てます。憲法改正の障害、憲法擁護派を説得させるのは不可能と判断します。そこで、エジプト遠征から帰還したナポレオンを使い、1799年11月”ブリュメールのクーデター”と呼ばれる軍事クーデターを起こさせます。ナポレオンの意志でクーデターを起こしたわけではなく、あくまでその軍事力を利用されたかたちです。

ナポレオン自身も「私は手先であり、主役ではない。しかし果実だけは頂く」という言葉を残していてます。その言葉どおり民衆の人気と武力を背景に、シェイエスら権力者を出し抜き、統領政府を設立、自身を大統領とします。ここで10年間続いたフランス革命は終焉をむかえます。

フランス革命がどの時期で終ったかについては諸説あります。一般的にナポレオンの軍事クーデターによって革命が終結したとされていますが、事実上の革命が終わったのはジャコバン派の処刑をもってフランスの市民革命は終わったと考えられています。惰性で続いていたブルジョワジーによる革命にナポレオンがとどめを刺したという捉え方が主流です。

 

まとめ:近代化の転換点となったフランス革命!

パリ、エトワール凱旋門

フランス革命は「国は国王のもの」から「国は国民のもの」という思想の転換点となりました。そして近代的な行政、政治、法律、軍隊にいたるまでフランス革命時に生まれたものが礎になっています。フランス国民は今でも何か問題があれば老若男女問わずデモに集まる事で知られています。自分たちのフランスをより良くするためにという高い内発性が伝統的にそうさせるのかもしれません。私達もフランス革命から「国の在り方」というものを学びとり、自分達の政治に目を向けてみましょう。

 

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