坂口安吾の知られざる人となりとは?独自の世界観を展開した文豪について
坂口安吾を知っていますか?
夏目漱石や川端康成に比べるとその知名度は落ちるかもしれませんが、文学好きであれば必ずマークすべき人物です。
その独特な世界観と、型破りな発想から生み出された作品集は一見の価値があります。文壇に確固たる地位を築いた安吾は、現代の国語の教科書にも必ず登場するほど有名な文豪です。
誰にも頼らず、その道を切り拓いていった安吾は、無頼派と呼ばれ、当時、時代の最先端を走っていました。安吾の世界観や、彼の生涯を辿っていきます。
坂口安吾の人物像
坂口安吾はどんな人物だったのでしょうか。坂口安吾の人物像を浮き彫りにしていきます。
生い立ち
坂口安吾の本名は坂口炳五といい、新潟県に13兄弟の12番目として誕生しました。炳五の名前の由来は、丙午の五男として生まれたことから、炳五と名付けられたようです。
父親の坂口仁一郎は憲政本党所属の衆議院議員であり、炳五は母のアサとの間の子どもとして難産でこの世に生を受けます。坂口家は由緒正しい家系で、代々の旧家であり富裕層でした。
邸内の広さは約520坪あり、邸宅は母屋と離れを合わせると都合90坪近くもある、まるで寺のような建物でありました。裏庭からは砂丘が広がっており、日本海が見渡せたほどの豪邸に暮らしていました。
炳五が5歳の時に妹の千鶴が生まれたことで、下の兄弟に母親を取られたという思いがあり、母親に愛されたいという欲求が強くありました。自分は母親に愛されていないと思い込んでしまった炳五は、時に行ったこともない街をふらりと出歩いてしまうこともありました。砂丘に寝転がり、海と空と風の中にふるさとと愛を感じることで、大家族に生まれた故の母を独り占めできない疎外感と闘っていました。
幼少期
幼少期の炳五は忍術ごっこに夢中となり、近所の子どもを引き連れては、遊んでいる活発な子どもで、ガキ大将として子どもたちのリーダー的存在でした。
炳五は型破りな性格であるとともに、強いリーダーシップがあったため、ある叔父が炳五のことをこのように評しています。「将来、炳五はとてつもないほどに偉い人物になるか、とんでもない破天荒な人物になるかの、そのいずれかであろう」幼少期の炳五が叔父に感じさせた寸評は当たらずも遠からず、偉大な人物に炳五は成長していくこととなるのです。
偉大なる落伍者になることを決意
反抗的な落伍者への憧れを強く持った炳五は、ボードレールや石川啄木の影響を受けていたため、試験の際に答案を配られた直後にすぐ白紙で提出するという教師に対しての反抗的な態度をとるようになります。ちょうどこの時期に、
「学校の机の蓋の裏側に、余は偉大なる落伍者となりえていつの日か歴史の中によみがえるのであろうと、キザなことを彫ってしまった」
と安吾は自伝小説の『いづこへ』に記していますが、実際には柔道部の板戸に彫ったというのが本当のところだったようです。炳五が再び落第になる可能性が高く、放校されることを危惧した父や長男の献吉が、9月に東京の私立豊山中学校の3年に編入させることを決めます。この編入がきっかけで父や長兄夫婦、四兄・上枝と共に東京府豊多摩郡戸塚町大字諏訪の借家に転居をして、しばしば浅草の寄席にも出かけた家族で出かけていたそうです。
また、炳五は長兄の献吉の影響で幼い時分から文学作品を読んでおり、アントン・チェーホフ、谷崎潤一郎、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、芥川龍之介、バルザックなどを愛読していたとされています。
さらに、詩歌では北原白秋や石川啄木などに興味を抱き、彼らの真似をして短歌を作っていました。当時の炳五は文学に自信があまり持てなかったため、中学生の時は野球や陸上競技に熱中していたそうです。5年生の時には第10回全国中等学校陸上競技会(インターハイの前身)のハイジャンプで1メートル57センチの記録で優勝した経験も持っています。
ペンネーム『安吾』誕生秘話
安吾の名はひょんなところから生まれました。中学校の教師が怠惰な生活態度の炳五に怒って放った一言がきっかけで安吾というペンネームが誕生します。炳五という本名よりも気に入った安吾というペンネームは誕生後すっかり自分の物として生涯大切にすることとなります。
安吾の素行に怒った教師が放った一言とは
中学生だった時分に、勉強もせずに逃げて回っていた安吾に対して当時の中学校の漢文の教師がこのように言い放ちます。「炳五という名はお前にはもったいない。もともと根暗な人間なのだからこれからは『暗吾』と名乗れ」。そう言い放ちます。
安吾という名の響きを本名よりも気に入った安吾は、漢文の先生が命名した『暗吾』から前の一文字を変えて、安吾と名乗ることを決めるのです。その後の作家としての執筆活動は坂口安吾として活動し、一度も改名することはありませんでした。
輝きという意味がある本名、炳五を気に入っていなかった
本名の炳五という名前には輝きや明らかなという燦然とした意味合いがあり、炳五は自身の本名を気に入ってはいませんでした。とはいえ、中学校の教師が怒り心頭して言い放った暗吾と名乗れという叱責をものともせず、一文字変えて生涯のペンネームにしてしまうところは、やはり炳五は肝が据わっているというかどこか社会を斜に構えている様子が伺えます。安穏とした安吾という名前を大層気に入った炳五のひととなりがどことなく見えてくるようです。
中学を卒業後、代用教員として一年間勤務
安吾の経歴には、代用教員として小学校で一年間働く経験があります。荏原郡世田ヶ谷町の荏原尋常高等小学校(現在は若林小学校)に勤務して、5年生を担当しました。「温い心や郷愁の念を心棒とさせ強く生きさせる」という信念のもと、生徒たちの指導に当たっていました。
生徒たちの印象は優しい先生であるが、怖い一面も持ち合わせているということで一目を置かれていました。この頃から短歌を詠むようになり、安吾というペンネームを使うようになったそうです。
代用教員を辞し、哲学を学ぶために大学へ
母校の豊山中学校が真言宗の宗派の学校で、在学中から宗教に興味を抱いていた安吾は宗教への探求心をより強くしていきます。求道の精神が強くなった安吾は宗教の道を極めるべく、代用教員の職を辞し、東洋大学印度哲学倫理学科第二科(現在のインド哲学科)に入学します。大学ではインド仏教の僧である龍樹に感銘を受け、「今後の寺院生活に対する私考」「意識と時間との関係」についての文献を発表します。
大学に進学した安吾は、勉学に励み特に語学の習得に没頭します。夜の10時に就寝して、夜中の2時に起きるという睡眠時間わずか4時間の生活を1年半続けます。しかし、睡眠時間が極端に短い生活を一年半続けたことで、安吾は神経衰弱になっていってしまいます。
創作意欲が盛んにありながら書けないという苦悩の中で、発狂しそうになる不安感を感じるときもありました。それでも安吾は、古今の哲学書や、サンスクリット語、パーリ語、チベット語など語学学習を熱量をあげて習得しようと努力することで、神経衰弱を克服します。
さらに、安吾はサンスクリット語の辞書を読むために、フランス語、ラテン語を学び、神田三崎町のアテネ・フランセ初等科に通うことを決めます。初等科での安吾のフランス語の習得力には目を見張るものがあり、成績優秀で賞をもらうほどに習熟します。当時の安吾は、酒も飲まずに講義に欠かさず出席し、神経衰弱を克服するために必死に勉学に励んでいたと当時の大学仲間が述懐しています。
アテネ・フランセ高等科に進み、本格的に20世紀フランス文学を学んでいく安吾に、母のアサはフランスへ留学させてやろうと考えますが、安吾自身が精神が弱まっていたことから、異国の地での生活に不安を感じ、留学へは踏み切れなかったそうです。
坂口安吾は徐々に売れっ子作家へ
大学を卒業後、安吾は世に次々と作品を生み出していきます。安吾の作品集を紹介していきます。
「道鏡」
1947年(昭和22年)1月に歴史小説「道鏡」を創出します。この作品は道鏡と孝謙天皇の恋
を描いたものでした。戦前の歴史観では悪人・非道とされていた人物を取り上げた安吾らしい作品で世間に歓迎的に受け入れられ、内容は恋愛ものというよりもむしろ、女帝としての孝謙天皇を描いたものでした。
「二十七歳」
20代の思春期の精神遍歴と恋愛観を描いた小説として、「二十七歳」を刊行し、それに続く連作的な「三十歳」も翌年に刊行します。「三十歳」では、当時新進女流作家であった矢田津世子との色恋沙汰ついて描かれており、安吾自身もこの作品を年代記のひとつの分岐点としています。
これらの作品を続けざまに発表して人気作家となった安吾は、太宰治、織田作之助、石川淳らとともに世間に「新戯作派」「無頼派」と呼ばれることになっていきます。しかし、時代の寵児となり注目される一方で「三十歳」が実に生々しい内容で恋愛に着眼したことから、「痴情作家」とレッテルを貼られることもありました。
「花妖」
挿絵を芸術家の岡本太郎に依頼をして、『東京新聞』に連載開始します。しかし、「花妖」は新聞小説としてのあまりにも形式破りな内容であったために、読者からの評判が芳しくなく、わずか3ヵ月で連載中断となってしまいます。
「不連続殺人事件」
雑誌『日本小説』に「不連続殺人事件」の連載を始めます。作中の登場人物である巨勢博士は短編「選挙殺人事件」「正午の殺人」でも登場し、人気を博します。少年時代から推理小説や探偵小説を愛読しており、その経験が活かされた作品になっています。また、平野謙、荒正人、埴谷雄高、檀一雄らと大井広介邸に集まって、推理小説の犯人あてのゲームに興じていた安吾が、推理に一番熱心で一番当たらなかったという逸話が残されています。
推理小説の犯人を当てるためには、作家としてはもちろん文学的であり、さらには洞察と造型力が必要であると考えていました。安吾はパズルの魅力やゲーム感覚で楽しむ理知的な娯楽としての位置づけで推理小説を捉えていました。しかし、トリックありきの小説には批判的であり、犯罪を扱う性質上、人間性や人間ゆえの心理に着眼するべきだと後述しています。
「青鬼の褌を洗う女」
『週刊朝日』25周年記念号に「青鬼の褌を洗う女」を発表します。この作品のモデルとなった梶三千代と酒場で出会い、毎週水曜日に秘書の手伝いをしてもらうようになります。そしてのちに彼女と結婚をすることとなります。
安吾は精神的に脆く、アドルムやヒロポンの中毒者に
親交のあった太宰治が自殺したことにショックを受けた安吾は、この頃から鬱病的精神状態に陥ってしまいます。向精神薬のヒロポンに加え、睡眠導入剤のアドルムを服用するようになっていきます。
鬱病的な精神状態を克服するために、短編やエッセイの仕事は断るようになっていきます。そこで書いたのが長編の「にっぽん物語」でした。しかし、不規則な生活の中でアドルムやヒロポンなどを大量に服用したために病状は悪化の一途をたどり、幻聴、幻覚なども生じるようになってしまいます。
状況は好転せず、アドルム中毒で狂乱状態、幻覚、神経衰弱となってしまい、夫人や友人達の助けで東京大学医学部附属病院神経科に入院する段取りとなります。入院したことで薬品中毒症状と鬱病は治まり、「僕はもう治っている」を『読売新聞』に発表し、病院を自主退院します。
生活のために執筆をしますが、軽い気持ちで服用した薬物のために病気を再発してしまい、発狂状態となります。やむをえず夫人とともに静岡県伊東市に転地療養することで、温泉治療で健康を取り戻していきます。
落伍者に憧れた型破りな坂口安吾の奇行の数々
フランス語学が堪能であり、勉学に励んでいた安吾でしたが、落伍者に憧れるという破天荒な一面も持ち合わせていました。常人では考え着かないような突拍子もないことを幾度となく繰り広げた安吾のエピソードをご紹介します。
競輪に不正があったとし、告訴
ある時から安吾は、競輪場へ通うようになり伊東競輪のあるレースの着順に不正があったのではないかと疑い始めます。その後、安吾は当時の運営団体である静岡県自転車振興会を相手にとり、検察庁に告訴をします。具体的な告訴内容は、判定写真にすり替えがあったのではないかとする声明文でした。しかし、結果は嫌疑不十分で不起訴となっています。
頼まれていないのに百人前のカレーを注文
文献が世に広まっていき、地位を確立していく安吾でしたが、金遣いが荒く、原稿料を差し押さえられてしまうなど生活は逼迫していました。友人である大井大介の家や三千代の実家、石神井の檀一雄宅に居候するなど妻の三千代と居住を転々とします。そんな中、破天荒なエピソードとしてあるのが、檀一雄の家に身を寄せていた頃に起こります。
ある日、檀一雄の家にいるときに、妻である三千代にこう云いつけます。
「ライスカレーだ。ライスカレーを100人前注文しろ。」
驚いた三千代は理由を問いますが、理由も告げずに頑なに安吾は100人前のライスカレーだといって引かず、仕方なく近所にあった食堂(ほかり食堂)と蕎麦屋(辰巳軒)に頼み、100人前のライスカレーを注文して、檀一雄の家の庭に次々とライスカレーの山ができていったそうです。100人前注文したライスカレーを安吾は、庭で黙々と食べ続けていたという逸話が残っています。
他人の家に居候しながら、理由もなく勝手に独断で100人前のライスカレーを注文してしまう安吾の突拍子もない行動は、「ライスカレー百人前事件」として語り継がれることとなります。余談ですが、さすがに100人前とはいかずに、20~30人前程度しか頼めなかったという後日談もあります。
檀一雄はその時の安吾について「言い出したら金輪際引かない男だ。」と語っています。
自身の近眼を恥じ入り、近眼を理由に中学校を留年
中学生の時分に成績が非常に優秀だった安吾でしたが、徐々に目が悪くなり、近眼になってしまいます。裕福な家庭に生まれた安吾でしたが、その頃、祖父の事業が失敗したために家庭の経済状況が芳しくなく、眼鏡を買ってほしいと言い出せずにいました。目が悪いことを同級生に気づかれるのが恥ずかしいことだと考えていた安吾の目はどんどん悪くなる一方で、黒板の文字が読めないまでに視力が低下します。
文字が見えないために授業がまともに受けられない安吾は、授業を真面目に聞かなくなってしまいます。そのため、成績優秀だった安吾の成績は下がり続け、最終的には中学校で留年してしまいます。この頃から、安吾の授業のさぼり癖は板に付き、漢文の先生に怒られて、安吾というペンネームが生まれるきっかけともなります。
もうひとつ眼鏡に関するエピソードがあります。勇気を出して、眼鏡を買ってほしいと親に進言して、一度買ってもらえました。しかし、安吾の手違いで黒ぶち眼鏡を注文してしまいます。当時珍しかった黒ぶち眼鏡は同級生たちの注目の的となり同級生たちとふざけ合っている最中に、壊してしまいました。
整理整頓とは無縁だった?坂口安吾の片付けない美学
安吾は自らが書いたエッセイの中で、自分がいかに所有欲に乏しいかを書いていたことがあります。食器や家具は持たずに衣類も最低限の物しか持たないなど、物に対する執着があまりありませんでした。物欲のない安吾は書斎の整理整頓にも頓着せず、安吾の書斎は常に散らかっていたそうです。安吾の発言から掃除することが億劫だったことや、きれいにものが片付いている部屋でなくても居心地が悪いと感じなかったのであろうということがうかがい知れます。
「蚊帳を片付けると埃が舞うから蚊帳は片付けない」
「机の書類の山は片付けると埃が舞うから掃除しない」
というような発言を残していたとされます。また、発疹を防ごうと進駐軍が地域周辺に殺虫剤を散布した際には、引き続き定期的に殺虫剤を撒き続けるように進駐軍にお願いをしてというエピソードも残っています。その折に安吾は、
「殺虫剤で死んだ虫はそのままでも風化するから自然の理にかなっている」
「布団はなるべく敷きっぱなしにしたほうがいいだろう」
などと考えて、最低でも2年間万年床を放置していたそうです。その他にも部屋が散らかっているのではない、物が具合の良いところに配置されているだけだと言っていたそうです。
ちなみに有名な安吾の散らかっている書斎の写真は、写真家の林忠彦が撮影したことで、多くの人に知られることとなります。
囲碁と将棋に精通しており、特に囲碁は強かった
安吾は推理小説や探偵小説以外にも、将棋や囲碁も好んでよく指していました。特に囲碁の実力は確かなもので、京都府に滞在していた時に碁会所の席主として生活していたほどでした。また、塩入逸造三段に五子で大金星を挙げており、囲碁の呉清源の十番碁に精通していました。
将棋の木村義雄、升田幸三、塚田正夫らの名人戦の観戦記も数多く執筆しており、観戦記は非常に評価が高いものでした。ときに木村を厳しく批判した安吾が執筆した『散る日本』は将棋の木村義雄が千日手を回避して敗北したことを批判した内容の書籍で、名作として世に受け入れられました。さらに、大山康晴を主人公にした『九段』という小説も安吾は執筆しています。
無頼派・坂口安吾の最期
晩年になってから初めての子どもができた安吾は、心機一転これからまた頑張っていこうと気持ちを新たにしていましたが、最期は唐突に訪れます。桐生市の自宅へ戻った時に、舌がもつれるという症状を訴えていた安吾は、翌日に脳溢血でこの世を去ります。享年48歳という若さでした。
亡き坂口安吾に文学仲間が送った賛辞の数々
安吾は生前広く文学仲間と交流があり、多くの著名人が安吾亡き後、その功績を讃えて賛辞を送っています。生前に交流のあった主な作家の言葉をご紹介していきます。
柄谷行人
当時、太宰治なども無頼派と呼ばれていたが、言語の本来の意味では、本当の意味で誰かに頼ることもなく愚直に生き抜いた安吾こそが無頼派であったと柄谷行人は述べています。また、安吾の作品を読んだ時から、自分には坂口安吾という人間が性に合っていたのだろうとの発言も残しています。
川端康成
川端康成は安吾の葬儀に際してこのような言葉を残したとされています。
「すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない」
安吾の個性的な文章は、安吾たる所以のもので安吾によってつくられて、安吾によって終えるのであると文字通り坂口安吾抜きでは語れないのであると彼は評したのです。
佐藤春夫
「文学の本筋をゆく」という佐藤春夫の作品の中で、太宰治のセンチメンタルな作品よりも安吾の文学こそが本筋であったと認めています。「坂口安吾の文学は少し奇怪で反俗的なところがあるが、文学としては病的な類のものではなく、高尚な精神を兼ね備えたすぐれたものである。一方で、太宰治のセンチメンタルなものよりわたくしは坂口の文学の方が文学の本筋をいっていると思っている」というように彼の作品についての印象や感じ方を述べています。
三好達治
小田原に安吾を招き共に生活をしたこともある三好達治は、
「彼は堂々とした建築物のようだけれども、中へ入ってみるとまるで畳が一枚も敷かれていないようである」
というように安吾のことを評し、評価を受けた安吾は思わず笑い自分のことを例えて安吾はこう切り返します。
「お寺の本堂のような大きなガランドウに、一枚のござも見当たらない。大切な一時間一時間を、迎え入れてはただなんとなく送り出しているだけなのである。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままスッとはいられて、すぐさまズッと出ていってしまっても、文句を言うこともなく、どこにも区切りというものはないのである。ここで下駄を脱いでくれという但し書きさえもないのだから」
と安吾は自身のことをユーモアに富んで評していたとされています。
三島由紀夫
三島由紀夫は太宰治を引き合いに出し、このように言っています。
「太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れ去られたら、それはまるで石が浮かんで木の葉が沈むようなものだ」
と言葉を残しています。
まとめ:破天荒な安吾の作品を読んでみよう!
坂口安吾の人生の歩みと共に、その生涯を振り返りました。安吾の数多くの破天荒なエピソードがある中で、多くの友人に恵まれた生涯は安吾の人柄を表していることでしょう。
晩年は精神を病んでしまい薬物中毒にもなりかける安吾ですが、愚直に文学に取り組む姿でその病も克服する姿には感銘を受けたのではないでしょうか。
この機会に坂口安吾という人物に興味を抱いて、安吾の作品にふれるきっかけを作ることができたのであれば幸いです。